91einundneunzig





 いつもの様に廊下を歩いているときのことだった。その廊下はただの廊下で、いくらここが魔術の中心地とは言え廊下は廊下でしかない。歩いているとふとした拍子に極小の魔方陣を踏んでロクでもない目に会うといった、真に意地の悪いトラップがそうそう転がっているわけでもない。全く無いとは言えないが、そのようなものがあれば自分が踏む前に周囲の人間の内誰かが引っかかっていることだろう。自分が被害者になる確率など無視してもいい程度だ。もっともそこまでたちの悪いものなど見つけ次第処分するところだが。
 彼、衛宮士郎はそういった人通りの多い廊下を歩いている。先日廊下で変な子供――凛達が言うには最悪の吸血鬼の一人――メレムと名乗る少年と会った、そこである。だからと言って何か特別な感慨が、なくはないがそれほど追求するものでもない。
 少年と分かれた後、士郎はついにミスをやらかしてこっぴどくお仕置きされた。いつもならもう少しいびられるのだが、あの時二人――凛とルヴィアゼリッタの二人はメレムから贈られた宝石で頭がいっぱいで追求はずいぶんとあっさりとしたものだった。士郎にとってそれは大変よろしかったのだが、そういう時にいつもフォローしてくれるセイバーはセイバーで帰ってきたエクスカリバーの事でこれまたいっぱいいっぱいだった。いっぱいだったのだから援護のあろうはずもない。結果、おざなりな叱責を受けただけに終わった。別に文句を言われたりする事が好きでもないのだが、それはそれで釈然としないものがあることも認めざるを得ない衛宮士郎少年だった。
 士郎も後で本物の聖剣を心行くまで触らせてもらった。時間を忘れるほどじっくり、そして丹念に撫で回した。その様子を見たセイバーは心配そうに、『シロウ、あなたの手つきはいやらしい』とか、『シロウはそうやって凛に触れるのですか』などと言う。その様、変質者と評しても遜色ない。
 ともかくここは魔術師達の都、時計塔の一部だ。彼らがここに来てだいぶ経つ。以来、驚くほど様々なことがあったが今まで大過なく学んでこれたと胸を張って言えると彼は誇っている。確かに未熟さは克服したとは言えない。むしろ輪がかかったと、否、一つできるようになれば、比してできないことが三つ、四つと湧いてくるのだ。それができるようになっていくのがまた楽しくてたまらないとばかりに打ち込み続けている。
 ここに来て友人も増えた。そばにいて本当に楽しませてくれる者もいれば、思わず背筋を正したくなるような者もいる。当然意見が合わない、どうしても気が合わない、といった者達も出てくるが、そういったことも含めて時計塔での生活は楽しい。日本にいたときは自分が魔術師である事を隠し続けなくてはならなかったが、ここでは違う。当然一般の社会では隠さなくてならないが、意見を交わすことができる相手がいるということはとても大切なことである。
 今士郎の隣を歩いている女性もここで知り合って仲良くなった、と彼は思う女性の一人だ。
 脇に教本や資料を抱えたまま、同様に同じものを抱えた彼女の横顔を何とはなしに見る。
「……何?」
 彼女は黒髪を揺らしもせずに見返してくる。その眼光は士郎が萎縮してしまいそうなほど鮮やか。そういった目には慣れているので視線を軽くいなし、たじろくこともなく応える。この程度で飲まれるほど衛宮士郎の日常は生ぬるくない。その是非はさておいて、だが。
「ん、いや、なんでもない」
「そうですか」
 彼女は一言でつまらなさそうに返して、また正面を向く。
 彼女とて隣の少年とは別段深い関係ではなく、縁がある、立場が近いといった程度のことで不用意に深く立ち入るつもりはない。彼女にとっては彼が話そうとしないのならそれで何の問題も無いのだろう。
「あ、そうだ」
「要があるのなら最初から言ってください。わたし、少しばかり予定があるので」
 無いと言っておきながらあからさまに思いつきの様子が見て取れる士郎のふらふらとした言動に、鮮花はわずかながらの苛立ちを含めじろりと、そんな音が聞こえてきそうな程胡乱な眼差しを向ける。
 彼女とて悩みの一つ二つはある。それにしても、先日面白くないことがあっての苛立ちを隠せなかった自分に軽く口の中で舌打ちをする。だがそれを全く面に出さない当たりはさすがと言えよう。
「あ、そうか……その用事、俺が手伝えるものか? もし手伝えるなら先に済まそうか? 迷惑だってんならいいけど」
「構わないわ。そうね、話の後手伝ってもらいましょうか。人探しだから手が多いほうがわたしも助かるし。――それで? 衛宮くんはわたしに何を訊きたいのでしょうか?」
 了解の応えを受けてすぐさま口を開こうとした士郎だが、ふと踏みとどまり少しだけ間をとる。ここで即座に訊くのは軽々しくて落ち着きが無いように感じられるからだ。
「その、なんだ。今更だとは思うんだけど、黒桐はなんで魔術を学ぶんだ? いや、妙なことを言ってるって分かるけど。でもお前って俺と同じで特出型だろ? どうも他の皆みたいに自分で新しい魔術の家を開こうってふうには見えないんだ。なあ、どうなんだ? 俺の思い違いかもしれないんだけど」
 彼女、黒桐鮮花は『へえ』と軽く口の端を吊り上げて薄く微笑み、最後に忌々しげに口を歪める。
「最初は、そうですね、わたしが魔術に期待した事。初めはそう、わたしは魔術師に成る事自体にはあまり興味はありませんでしたし、今もありません。その点ではあなたと同じ。魔術は技術です。ですからわたしはそれの使い手になろうと思っていました。ここに、時計塔に来たのも師に勧められたからです。言っておきますが、わたしの師はあの人ただ一人です」
 そこまで言って、『ふんっ』と鼻を鳴らす。士郎は彼女の師、蒼崎橙子についての情報を引き出す。まず思い出した事は、その名前を聞いた時の凛は士郎の目から見ても明らかに狼狽していたことだった。蒼崎橙子、封印指定を受けた大魔術師にして人形師、魔法使いに成り損ねた魔術師、呪刻師ルーンマスター。傷んだ赤色の名は知らない、知っていてはならない・・・・・・・・・・
 封印指定を受けることは魔術師としては最大の名誉にして厄介事。『それもそうだ、誰も標本になんてされたくない』。そう言う士郎に凛は人事などでは済まされない、と叱った。その秘密が漏洩でもしたら封印指定を受けるかどうかは別にしても、実験材料として脳髄を引き抜かれるところだ。そのようなこと士郎でなくても是が非でもご免こうむるところだろう。
 対する凛の言葉はこうだ。『何言ってんのよ? 非を是にするような奴らに是非なんて関係ないわよ』。
 加えて、士郎が蒼崎を知らなかったことで凛はまたしても呆れかえり、それにもあきらめてため息をついた。彼がよその魔術師について全く知らないと、もうずいぶんと前に分かっていたはずなのだから。だがそれでも呆れるものは呆れるのである。実の所、蒼崎の名前は相当有名だ。ルヴィアゼリッタもアオザキと聞いて結構微妙な顔をしていたことを思い出して、自分の無知さ加減を実感する少年だった。今の蒼崎の当主はここ時計塔に所属しているのだが、その行動はすさまじいの一言に尽きる。
「じゃあ今は違うんだ」
「……あれは、そう三年前。あの日から、わたしにとって魔術とは技術から武器へとその意味を変えました」
 ぐぐっ、とコブシを握り締め忌々しそうに歯を軋ませる黒桐鮮花。
「大切な、とてもとても大切な人が、何年も何年も、幼いときから積み上げ続けたきた想いを、綿密に組み上げたきた計画が、突如として現れたわけの分からない女に横から奪い去られていったあの時から。――わたしが魔術を学んだのはこのためだと、あのバカ式から幹也を取り戻すための手段だと悟りました」
 吼える鮮花。
 その姿に一歩二歩距離をとろうとした士郎だが、その眼光が彼の足をその場に縫い止める。
「ええ、今は、今は仕方がありません。日本にいる間はずっと牽制をしてきたのである程度押し留められました。ですがそれではジリ貧、一度傾いた天秤を覆すには新しい何かが必要でした。ですからわたしは師の勧めもあり、ここ時計塔へと来たわけです」
 一つ言わせてもらうとするならば、それは横恋慕ではあるまいか、と士郎は思う。その幹也さんのことが好きなのはよく分かったけれど、その二人はお互い納得ずくで付き合ってるのではないか、と。
 それにその場を離れてここに来た時点で勝敗は決まったんじゃないだろうか? 日本に帰ったら二人の子供がいたってことになっていなければいいと、彼女のために祈る。それが本当に彼女のためになっているのかは言わぬが華、地獄に仏。
 鮮花は軽く息を吐き、興奮が冷めるのを待ってから今度は自分の番とばかりに問い返す。
「それであなたはどうなんです? 人に訊いたからにはそちらも教えてくれますよね?」
 対する士郎の答え。
「正義の味方になるため」
 即答である。
 それに対するは間髪おかず、この問いを想定していたが故の瞬時の返答。
「……?」
 あまりにも突飛としか思えない回答を聞いた鮮花は最初に首を傾げ、数回まばたきをする。それから持っていた教本を開いたり閉じたりしてから向き直る。
「燃やしますよ?」
 ここでエガオで脅せば凛なのだが、彼女はそれとはまた違い明らかに不機嫌そうな顔で眉間に皺を刻む。どっちにしたところで根底にある物は同じだ。それでもそれが士郎が魔術を学び始めたきっかけで、全てであることには間違いない。
「冗談なんかじゃない。ほんとの本気で言ってるんだからな」
 いささかむっとして言い返す。その理想の二つの終局も知っている。だけど、だからこそ士郎は、そして彼はこの最も根本にあるその夢を曲げるわけにはいかない。
 言葉を交わしたわけではない。手を握ったわけでもない。目配せをしたわけでもない。それでも彼の考える事なんて分かっているし、彼も士郎の考えている事など手にとる様に分かっていることだろう。
「そうだっけ。黒桐には言ってなかったもんな。俺、孤児だったんだ」
 ちょうど広めのホールに出て、休憩用のベンチがあったのでそこに向かう。
「少し、長くなるけどいいか? 時間」
 鮮花は怪訝そうな表情で士郎の隣に腰を下ろす。士郎にはその様子は己の鬱憤を晴らすことよりも今においては興味を惹かれた故、そのまま去る事を己に認めないが故に促しに従ったかに見える。
 あたかも、『あんな巫山戯た理由、そのさらに理由を聞かなければ納得いかない』といった感じである。否、実際そうなのだが。
 さて、どこから話したものだろう? と内心首を傾げる。彼女は比較的士郎たちの事情に明るい。どうやら彼女の師から聞いたものらしいのだが、情報を封鎖するのに凛が割いた労力や苦悩を思えば釈然としないものも感じる。
 漏れてしまうところには漏れてしまうらしいと彼らも諦めもした。ただ漏れてしまった情報は今回の聖杯戦争の顛末だけ。聖杯がどのようなものであるかなどは不明のまま、そこで一体どのような事が行われていたかなどどこにだって漏れていないはずだった。
 『でも蒼崎橙子ならちょっとは知ってるかもしれない』。そんなことを凛が言っていたことも思い出す。こと魔法となれば蒼崎はかなり喰いこんだ存在であり、根源への穴を管理するという想像を絶する所業をなしてきた血族でもあるのだから今更目くじら立てても詮無いことと言えよう。
 それはいいとして、やはり切嗣に助けられたところからだろう。それが全ての起点なのだから。



 それから話したことと言えば、別段特別なことを話しはしなかった。士郎本人にとっては間違いなく特別なことではあったが、奇異なことは言ってはいない。当たり前の身の上話。
 彼は養父の後を継ぎたい、だから養父ができなかったことをやる。衛宮切嗣は全てを救うことをあきらめた上で、1を切り9を助ける道を選んだ。だから彼は、それよりも先。なにも切り捨てない、全てを救う方法を探さなければいけない。それが後を追う者、衛宮切嗣の継嗣としての衛宮士郎へ彼自身が課した主題なのだから。
 それが綺麗に見えた。憧れていたし、憧れているし、憧れるから、ただただまっすぐ走っていれば届くものと信じていたから、信じていたから、まっすぐだったから、つまずく事すらできなかったのだと、語った。
 つまずいて初めて気付く、とは誰の言葉だったのか、ただ話に聞いただけの格言だったのか、そのようなことは衛宮士郎には関係ない。あまりにも周りを見ずにひた走るものだから、よく見れば見つかってしかるべき小石すら――それがどれほど致命的でも、どれほどきっかけに満ちていても――踏み潰し、踏み越え、つま先が引っかかったとしてもそれにすら気付かずに蹴り飛ばしてしまったのだろう。
 でも、彼は知った。あのままだと自分はあのままでしかないと、知ってしまった。なら変えるしかないではないか。変えるとしても、正義の味方を目指すという目標を変えるわけでもない、犠牲を必要悪として許容できるように自分を殺すことでもない。それはエミヤが本当に望む夢ではない。
 ただ純粋に、単純に、明快に、つまびらかに、足元を見る事を覚えただけにすぎなくとも、それは士郎にとってどれだけ大切なことだったのか。しかし士郎がその意味を真に理解する日は来ない。それを本当の意味で理解するにはそこから転がり落ちなければならないから、だからこそエミヤは理解した。そして士郎がそこから転がり落ちることもないことも。彼の傍にいつも彼を支える者がいるのなら、もしそうならば衛宮士郎は大丈夫・・・なのだと。
「呪い、ですね」
 そう、それは未来への呪い。他の誰でもない自己への自己のためにのみあって、自己を支え、絶対で根底の将来において障害となるであろうありとあらゆるものに対する宣戦布告。
「なんだよ、それ?」
 鮮花は肩にかかった艶やかな黒髪を背に勢いよくまわす。この少年は全く自覚も無く茨の路を裸足で歩いている。裸足で歩く必要など無いのに、目的地は同じでもっと歩きやすい路があるというのに、それに露とも気付かずそれが当たり前とばかりに歩いていくのだ。この少年は。
 彼女は知らない。奇しくもアトラシアの少女もまた、別の少年に異なる場所で同質のものを感じたことを知らない。
 士郎のそのあまりにも痛ましく、それを表情に出さない生き方が気に食わなくて、ついつい乱雑な応対をしてしまう。結局の所、黒桐鮮花もどちらかと言えば人の良い人間に分類されるのだろう。
「ですから、言葉通り呪いです。一種のシステム、あなたを定義づける呪の縛り。あなたを方向付け、あなたはそうである以外にあり方を選べない。――別にあなたに限ったことではありません。わたしだってそうでしょう。もっとも、あなたのそれはいささか歪ではありますが」
 鮮花の切り離すような、それでいて一切の嫌悪も侮蔑もないその言葉に士郎はわずかながらも反感を示す。
 赤い弓兵も言っていたことではある。衛宮士郎の夢は借り物だと。だがもう借り物などではない、衛宮士郎が衛宮士郎として決めた未来であるから。だからこそ、エミヤは再び希望を手に入れた。盲目のまま進んだ過ちから、少しだけ違う未来に想いを馳せた。
「あなたは自分への還元を一に見ていない、わたしは見ている。そこが違う。まあ、満足できるという結果が残ると言えば同じことではありますが」
「構わないさ。自己満足って言われても仕方がない。それでも俺は俺がなりたいようになるって、親父ができなかったことをしてみせるって、約束したんだから」
 彼女は聞いているのだろうか。士郎は怪訝そうに首を傾げる。当の鮮花はぼんやりと前に視線を投げている。荷物をひざの上に置いて、その上に良の手を合わせる様にして、時折眉間を険しくさせて、何かを切り出そうか、それともやめようか。そう悩んでいるようにも見える。ふと士郎を見て、口を開きかけてすぐつぐんでしまう様子を見てそうと判断できないほど鈍感ではない。そこまで鈍感であるならば今頃凛の怒りを一身に受け、病床にあることだろう。
 しばらく静かに待っていたのだが、それでは埒が開かないと判断し、切り出せないのならば促そうと鮮花の思考の螺旋を解き開く。
「なあ、何か、あるんだろ? 言ってみろよ」
 すると彼女はひくっ、と眉を揺らし、苛立ちをため息として吐き出した。その様子にやや狼狽する。まさかとてつもなくまずい所で邪魔をしてしまったのではなかろうか?
「衛宮くん、あなたつくづく……いえ、いいわ。凛がいつもあなたを罵っているのもよく分かります」
 肩を震わせもせず、声も震わせもせず、どうしてこんなに鬱々とした、氷々とした気分にさせられるのか。士郎の背中には冷たい脂汗が少しだけ、確実に浮き出していた。
 深く考えるべきか否か、そこをまず考えていたが、すぐにそれは遮られた。
「では問いますが、常識外の暴力を振るわれた被害者が、それ以上の暴力とも言えない程の暴力で加害者を殺戮したら。それに直面したら、あなたはどうします? そこに残るのはかつての被害者、今の加害者。でも常識を超えた所業でなされた事象は結果、常識には認識されません。それでもそこに罪は残ります。それでもその罪は罪として確立することはできなかったら。――あなたはどうします?」
「……助ける、さ」
「どうやって?」
「そんなの、今分かるかよ。その人がいたとして、今俺が考え付くような方法じゃどれも助けることなんてできないだろう? だからそんなこと訊いてきたんだろう、黒桐は。今のままじゃ、これまでの俺には届かない答えだから訊いてきたんだろう?」
「……」
 そう、士郎の掲げる正義では彼女は、鮮花の友人である少女は決して救われはしない。どうしようもないほどの絶境に立たされた彼女に真っ当な救いの糸は届きはしない。士郎の正義は王道だ。誰もが認める絵空事の王道。尊く、真っ白に輝くそれは、同時に幻想でしか存在しえない夢物語。
 鮮花はまた一人の少女を思い浮かべる。橘香織、彼女であれば救えたのか? 救えない。一度傷を負った彼女を綺麗なまま助け出す手段など、時間を逆行でもさせない限り不可能だ。
 その程度で救われるなら彼女は自殺などする前に、彼女を本当に大切にしていた者が助け出していただろう。それができなかったからこそ、復讐しか残されていなかったのだから。その復讐者の事を思い浮かべ、肩をわななかせる。あの女は……。
 とうとう押し黙ってしまった鮮花に、士郎の方から問いかける。
「それでさ、その人、結局どうなったんだ?」
「生きてますよ」
「――そっか」
 士郎はふいに、あっけなく、さしたる感慨もなく受け入れる。そのことに驚いてああ、と気付く。
 そうか、衛宮士郎は怒りを覚えていたのか。どうして、なぜ? その答えは鍵を閉めたかのように扉の向こう。
「でも、彼女に殺された人は皆、どうやっても助けることはできません」
「なんで、殺されたんだ? 一体彼らは何をやったんだ」
 おぼろげながらにも答えは見えている。扉の向こうから中にいる者の気配がひしひしと感じられるのだ。でもそれとは違う答えが返ってくることに僅かな希望を持っていた。
 そう、迂闊にも尋ねてしまったのは果たして正しかったのか。掘り出してはいけないものをあえて掘り出そうとしていたのではないか。答えを聞いて士郎がそう思うまでに時間はかからなかった。
 鮮花の眼が急速に冷めていく。その色彩は真黒でありながらも暗い虹色の混々として濁々としいる。背骨の骨髄が凍結したような錯覚さえ抱かせる程のどろどろとして、今まで彼女が見せた事のないような目に士郎は身を硬くする。返ってくる答えを思い描いて身を強張らせる。
 憎悪だろうか。軽蔑だろうか。嫌悪だろうか。唾棄だろうか。敵意だろうか。殺意だろうか。躊躇だろうか。恐怖だろうか。憤怒だろうか。動揺だろうか。逡巡だろうか。嘲笑だろうか。憂鬱だろうか。屈辱だろうか。悲壮だろうか。
 そうじゃない、憎悪でも軽蔑でも嫌悪でも唾棄でも敵意でも殺意でも躊躇でも恐怖でも憤怒でも動揺でも逡巡でも嘲笑でも憂鬱でも屈辱でも悲壮でもなく、他の何でもなくその全て。
「言ったでしょう?」
 ――穢されたって。
「だから復讐した。あの娘は」
 予想していなかったとは言わない。でもそうじゃなければいいな、と思ったことは否定しない。
 加害者で、被害者。被害者で、加害者。どちらかを立てれば片方が救われない。その究極的な縮図のような話だ。
「それで、俺がどっちを優先するか、か……」
 その事件はもう終わったモノで、今では前例、一例とするしかない。でも今後同じ状況に出くわしたとき、衛宮士郎は、正義の味方はどういう判断を下さなければいけないのか、下すことになるのか。それ以前に、判断を下すことができるのか。
「後始末……か」
 守護者であった彼がしてきたことは、今からその彼女の元に出向いて切り捨てることなのだろう。破滅を回避させるためではなく、起こった破滅の後片付け。それが守護者。そのようなものだとは露とも思わずその身を捧げた英雄の姿が何度も何度も士郎の頭なのかで現れ消える。
 ――そんなの真っ平ごめんだ。
「そうなる前に」
 と、鮮花がこぼす。今まさにそう言おうとしていた士郎は開きかけた口を閉じる。
「え?」
「そうなる前に未然に防ぐ、なんて言わないでね?」
「駄目なのか?」
「それは本気?」
 じい、と目を覗き込まれた士郎は思う。『ああ、どうして俺の周りにはこういう女性しかいないのか』、と。凛にしろセイバーにしろ、ここに来て知り合った女性は事の他自分を詰まらせることが好きらしい。口をへの字に曲げる。
「……」
「……」
「……ごめん、それが一番の考えだと思うのは確かだけど……」
「最善でも最適とは言えないわよ。そんなの。そもそも助ける、なんてそれこそ事後処理でしょう。事の前に片付けてしまったら救うもなにもないでしょうに」
 取り付く島も無い。確かに、鮮花の持ち出した例――浅上藤乃の問題は事件の前から原因自体はくすぶっていたのだ。それが噴出しての結果が目に付いたものの、それを防いだところで根本の解決とはなりえない。
「でも後手に回ると既に手遅れなんだろう?」
「先ほどの彼女の経過についてですが―――」
 鮮花は士郎の追及を脇に捨て、淡々と事実を続ける。その眼には先ほどの色はなく、ただ単純にすんでしまった事の事後経過を伝えるだけの、いつもどおりの鮮やかで澄みきった眼差しだった。
「元通り、とはいわずともそれなりに落ち着いた生活をしてる。罪も咎も否定せずに自分の一部として受け入れる事ができた。彼女の力だけではないけれど、兄さんとか式とか橙子師とかなんだかんだで支えてくれましたからね。……もっとも、殺された連中は死んだままだけど――生き返ったところでわたしが殺します」
 過激な発言に鼻白む。
「さて、誰が救われて、誰が救われなかったのでしょうね?」
「分からない、な。ちくしょ、誰がっていうか、誰もがじゃないのか、それ?」
 殺された人は救われていない。とはいえ殺した彼女も救われたなどと軽々しく言えるはずもない。そのような事を臆面も無く言える士郎ではない。
 誰もが誰かの害悪で、誰かの救いが誰かの絶望。
「一つ付け加えるけど、その彼女。途中からは殺人行為に快楽を覚えていたそうよ? そして無関係な人もそのために殺された」
 それでも生き残ったのはその彼女ということ。
「無茶苦茶じゃないか……」
「わたしたちは総じて無茶苦茶だってこと忘れた?」
 まるきり罪の螺旋。
 誰かが誰かを陥れて、その誰かも誰かに陥れられて、そしてその誰かもまたそうなる。回って回って返ってきて、また返して回って返ってきてずっとずっとそれが繰り返す。それは、それを本当に断ち切る手段なんて、最初の一手を止める以外にないのではないか。干渉する衛宮士郎が事態を好転させるにはどうしたらいいのだろうか。士郎とて自身の限界を本当に正確に把握しているわけではない。鮮花も、凛も、ルヴィアゼリッタもそこに違いはない。ただ士郎に限って、彼はその能力を遺憾なく外に向けて使おうとする。
 果たして自分はそれに介入するのに十分な能力をもっているのだろうか。それが士郎には重い問題となってのしかかる。
 解がない。理屈では分かっている。切嗣がそう判断しなくてはならなかった理由も分かっている。それが一番現実に即した考え方だということも分かっている。それでも分かっていても信じて信じて信じてどこまでもそうあるべきように、誰も犠牲にせずにする方法を探し続けることこそが、衛宮士郎の正義の味方なのに。
 いつの日かそれを忘れてしまった時、彼はエミヤの失敗を繰り返すことになる。それはエミヤとて望みはしない。だからこそ彼は士郎の前に現れた。いつか士郎が間違えた道を歩むだろうと誰よりもそれを分かっていたからこそ、エミヤは士郎の前に現れた。
 しかし士郎はもう間違えたりはしない。士郎とエミヤはもう別人なのだから。士郎がエミヤと出会った時点でもう衛宮士郎と英霊エミヤは連続していない。エミヤの歴史には聖杯戦争で前のエミヤと会った記録はない。
 衛宮士郎は守護者エミヤの様にはならない。エミヤはいずれエミヤに成るであろう衛宮士郎を消去したかった。ならばその目的は果たされた。衛宮士郎はエミヤにはならないから。なれないのだから。
 士郎が自己の未来との決着を思い返している間、魔術使い黒桐鮮花は同じく魔術使い衛宮士郎の回答を待っていた。
「そうだな、無茶苦茶なのはお互い様か。……黒桐。俺、やっぱり助けようとするよ。どんなにこぼれようとしても助けるしかない。だってそうするしかないじゃないか。俺ができることなんて限られてるし、その場その場でも変わってくる。でもそこで自分の限界を決めてしまうつもりはない。その時点での限界をぶつけないといけない。親父のやり方が間違っているなんて言わないさ。ああ親父は万能ってワケじゃなかったからな。でも『全てを救う』方法じゃ親父では無理だったんだろうな。俺にもできるか分からない。――でも、俺は1を切り捨てて9を助けたりはしない。絶対に10を救ってみせるって、俺にはそれが一番の方法なんだって決めてたから」
「衛宮切嗣、前回の聖杯戦争の実質的な勝者。へえ、人づてに聞いた話だととんでもない冷血漢の魔術機械ってのがイメージとして強かったけど……」
 いったん息を切り、ふむ、と頷いて、
「意外だわ」
 あごをに指をかけて思案する黒桐鮮花。その横顔に一瞬見とれ、これはいけないと眼をそらす。凛といい鮮花といい、この手の少女がじっと考えている様子が好きなのだろうか。なんとはなしに浮気をしたような気がして、少しばかり士郎の落ち着きは失われてしまった。
 そこで思い浮かぶのものは言葉にすればただの惚気、与太話にすらなりかねないものだ。聖杯戦争のときは考えている途中の凛の思考をやむなく中断させたりしていたけれど、最近ではその悩み顔を眺めるという趣味が確立されてきた、と人に語る。逆にそれに見とれていた士郎自身が思索の世界から帰って来た凛に殴られたり叩かれたりすることも少なくはない。
 切嗣のイメージについてはもう何も言うつもりはない。セイバーの話からしてもその認識は間違ってはいない。ただ士郎の知る衛宮切嗣とそれまでの切嗣の違い。切嗣は聖杯を知って変わったのか、そうではないのか。それも分かりはしない。ただ士郎の目の前の聖杯に触れた具体例としては慎二のことが思い出されるだけ。慎二は変わったわけではない。間桐慎二はもともとああいう人間だったと士郎は覚えていた。皮肉で、性根が曲がっていて、それなのに身内には文句を言いながらも甘いのだ。
 思い出す。切嗣とて正義の味方に成りたかった。そして自分では成りきれなかったと決定してしまった。その姿が士郎にとってどんなに正義の味方そのものでも、彼自身にとってみればそれは不完全だった。自信がなかったというよりも、とどかなかったことを確信したのだろう。
 それでも切嗣は士郎に道を示した。士郎が生きていく目的を見せつけ、その先駆者としての姿も幼い士郎の両の目にしっかりと焼きつけたのだ。
「関係ないさ。その後からの親父は俺の知る親父なんだし。関係ないよ。親父は親父なりのやり方で貫こうとしたんだから。ただ、9のために1を切り捨てるって方法は俺の目指すものじゃないってだけなんだ」
「それがあなたにとっての彼のやり方?」
「ん?」
 怪訝そうに首を傾げる。士郎にとってそれは予想の範囲の外の問いだった。その士郎の小さな少年のような無心の表情にくすりと笑い、その後再び眉の角度をややきつくし問う。
「ならあなたは一体誰だと言うの?」
「誰って……衛宮士郎」
「まじめに答えなさい。あなたは生者? それとも死者?」
「生きてるよ。言ったろ? 本当は死んでて当たり前だったんだ。でも親父が助けてくれたから今もこうして生きている」
 あの時の切嗣の嬉しそうな、本当に幸せそうな安堵の表情を士郎が忘れる事などない。何もかもが、それから始まったのだから。
 鮮花は不機嫌に口元を歪め、僅かに厳しい眼差しで睨み叱りつけた。
「9のために1を捨てていたならあんたなんてここにいやしないわよ。まったく……常々思うけど、衛宮くんは肝心なところで鈍い。本当に鈍い。凛が苦労してるのもよく分かるわ。本当、同情する。今度何か驕ってあげることにするわ」
 なんとも忌憚の無い言いようである。確かに『にぶちん』だの何だのと言われているが、士郎にとってそれは凛が言ってるものである以上、愛情表現として受け取っている。時には凛が本気で言ったとしても、気付かないことがある当たりはさすがは『にぶちん』と言えよう。ただ、今回に限っては鈍さの対象が凛やセイバーではなくて切嗣だということが腑に落ちない。凛のことならともかく、鮮花が切嗣の事をよく知ってるはずもない。そう思ったからこそ不可解だった。
「どういうことだよ。そりゃ、俺がここにいるのは親父が助けてくれたからだけど」
「91人目です」
「はい?」
 その突拍子も無い一文に士郎の混乱はさらに攪拌される。
「衛宮切嗣という魔術師は100人の内10人を捨て、90人を救おうとしたのでしょう? 10人の内9人を救うのではなく、100人の内から90人です。あなたは切り捨てられた10人の内の1人よ。でもあなたは助けられた。――あなたのお父さんは90人だけしか救えないなんて割り切ってなんかいない」
 鮮花の真黒な眼が士郎を見上げる。挑むような、糾弾するような、諭すような目で、ただ己の理想を見つめ続ける目を突き刺す。
「理屈では分かっていても、本音では分かっていないわよ、それ。あなたと同じただのバカ。全てを救おうとすると指の間からこぼれ落ちる。こぼれ落ちてもこぼれ落ちても落ちていく砂粒を一粒でもすくいなおして、またこぼしてすくいなおす。なんてことない、全員、100人中100人救おうとしていたように思えるわ、わたしにはね」
 薄桃色の形のよい唇がすう、と僅かながら曲線を描く。その白磁の指で肩口にかかった黒髪を跳ね上げ、これまた白い首筋が士郎の眼前にさらされる。
 いつもならこの光景に喉を鳴らして目を逸らす士郎なのだが、今はそれどころではないために鮮花の目の覗き込み返すだけだった。
「それでも彼は全てを救うことなんてできなかった。当たり前よ。それができるなんてどうかしてる。それこそ聖杯みたいな願望器でも使えばいい。でも既に一度切り捨てた10人の内1人だけ拾い上げることができた。それがあんたでしょうが。91人目。901人目。9001人目。なんでもいいわ。あなたはその魔術師が最後の最後まで抗った結果ってことを自覚する事ね。あなたは決定された事象を捻じ曲げてまで拾い上げられた一粒ってことをもっと自覚するべきよ」
 そこまで言って立ち上がる。足を膝の高さまで振り上げ、それで勢いを付けて『よっ』と声をかけて飛び上がる様に立ち上がった。実に颯爽と、闊達と、涼やかに、そして鮮やかに立ち上がった黒桐鮮花は、くるりと振り返り言う。
「それではわたしはこれから人を探すから行くわ。手伝ってくれるのならお願いするけど、あなたと話していて結構楽しめました。不可能でもそれは決定されたものではないとあなたがその身で今も示しているのですから、これでわたしも少しだけ話す前より希望を持てました。それでは」
 かっ、と踵を鳴らせて歩き始める。ふわりとその柔らかそうな黒絹の髪が風に身を任せる様にたなびいて、その艶の下に滑らかなうなじが見て取れる。そのまま歩き去っていくのかと思いきや、そこですぐさま足を止める。その様子からは士郎に何かまだ言うことがあるから、の様には到底見えない。彼女の視線の先には彼女と視線を交えている女性が一人。
 お互い不倶戴天の敵、そして――どうしたことだろうか、まるで自分の片割れを見るような目をしている。
 黒桐鮮花に対する女魔術師の名は黄路美沙夜。士郎や凛、鮮花達よりも一足早くここ、時計塔に留学して来たという妖精使いファミリアマスター。士郎は鮮花と美沙夜の確執を、まだ知らない。知らない方がいい。
「探す手間が省けた……」
 鮮花が呟く。先ほど士郎に向けていた言葉が同じ喉から出てきたのかと疑う程の怨嗟に満ちた声。可憐な白い顔は見る影も無く、あたかも幽鬼の如し。
 対する美沙夜はお嬢様らしくもなく舌打ちをしたあと、すぐさま身を翻し人ごみの中に紛れ込んでいく。それを見た鮮花は脇目も振らず、そして実に巧みに人をかわしつつ、かつかなりの速度で歩き去る。
 それをぼんやりと眺めていると、かすかに遠くから鮮花達の声が聞こえてくる。
「先輩! あなた幹也の写真を、兄さんの写真をちょっぱったでしょう! 返しなさい。今すぐ返しなさい! さあさあさあさあ! 一体何のつもりですか!? あなたに兄さんの写真なんて関係ないでしょう!」
「それがどうしかしまして? 私が貴女の兄に懸想して何の問題があるのです? 少なくとも、実の兄に恋焦がれるよりもずっと健全ではなくて?」
「何言ってるんですか!? この尻軽女!」
「私の想いを徹底的に打ち砕いてくれたのは貴女とお忘れ?」
「くそ、開き直るな、変態虫女!」
「あらそんな乱暴な言葉遣い、マザーがお聞きになられたらどんなお顔をなさるのでしょう。ああ、私心配でなりません。マザー・リーズバイフェに代わり、今ここで私が嘆きますわ。ああ、なんと、なんということでしょう! 私、同郷の者として耐えられる程の顔の表皮の強靭さがない事がここまで口惜しいとは月が落ちるほどにも予想だにしませんでしたわ」
「ちょっと見ない間にずいぶんと調子よくなってっ……」
 ここにきて積もり積もったフラストレーションが爆発したとばかりに美沙夜に喰ってかかる鮮花。そもそも機嫌が悪いのも、人を探している理由も美沙夜に集約されるわけなので、致し方ない事なのかもれない。
 しかし士郎には彼女達の趣味についてとやかく言う権利などなく、そもそも事情を知りもしない。
 やれやれとばかりに首を振り立ち上がろうとベンチに手を置いたところで、コツン、と何かに手が触れた。
「ん?」
 石だった。ただの小石。ただの、と言うにはなにやら魔術の手の後が見えたので目を凝らしてみる。一体何なのだろうか。記憶に引っかかるのだがどこか曖昧で、それが何であるか思い出す前にそれ自体の解析の方が先に完了した。
「……っ!?」
 その後は単純明快、その効果が分かればさすがの士郎もそれが何かは思い出せた。
「これFアンサズ呪刻ルーンじゃないか! うお、火がついた。げ、もう一つある!」
 Πウル呪刻ルーンを見つけ、その意味を悟りますます顔色を悪くする。その極小の回路に魔力が流れたかと思うや否や――爆発した。





「……なんでさ?」
 やるせなくて無気力に床に横たわっている士郎の前で、異様なほど小さな体躯をした少女が心配そうに彼を眺めている。上背は士郎の膝の高さほどもないだろう。黄のつなぎに同じく黄のナイトキャップをかぶったその小さな少女はひょこひょこ、ひょこひょこと彼の周りを回り、最後に士郎の顔の正面で足を止める。くりくりとした薄緑の大きな目で士郎の怪我の具合を確かめた後、その愛らしい妖精シルキーは士郎が軽症であることを悟り安心したとばかりに神妙な表情を崩す。なにやら嬉しそうな妖精シルキーは懐から取り出した小さな手ぬぐいで士郎の顔の汚れを落とし、小奇麗になった士郎の顔に満足そうに微笑む。役目は終わったとばかりに彼女は黄金色の長くたなびく巻き毛を揺らし、帽子が落ちない様に片手で抑えつつ、小さな体には不釣合いなほど大きな靴をパタパタと鳴らしどこかへと走り去って行った。
「シロウ?」
 そのまま士郎が煤けて床に転がっていると、彼を遠巻きに眺めてる者達――決して手を出そうとしないところなど、彼のトラブルを呼び込む体質をよく理解している――の間から機材を抱えたセイバーが出てきた。
「シロウ、ここで一体何があったのですか?」
 荷物を抱えたまま、血相を変えて駆け寄ってくる彼女が今は眩しい。
「ん、ああ、ちょっと、その……なんでもない。ただ立つ気力がないだけ」
「そうですか、それならよいのですが。怪我はありませんか? どこか不具合は?」
 訂正。彼女はいつも眩しい。
 士郎は実感した。
「今から凛の所へ行くのですが……立てますか?」
 そんな心配そうな顔をさせてしまって、ただ脱力して寝転がってるのが馬鹿馬鹿しく思えて立ち上がる。実際どう考えても馬鹿馬鹿しいことは否定できないのだが。
「ああ、大丈夫だ。心配かけてすまない」
 けほ、と煙混じりの咳をして苦笑する。
 周りの観客も興味を失ったようで、三々五々と散って行った。それを見届けた後、セイバーに向き直る。
「それじゃあ、行こうか」
「はい」
 微笑む彼女の、その子供を見るような目を見て、ふと考える。
「なあセイバー」
「なんですか?」
「話をしよう」
 それを聞いたセイバーは脈絡も無く、突然の申し出にも驚いたそぶりも見せずに微笑みで返す。
「歩きながら、さ」
「ええ、何について話しましょうか?」
 二人そろって片足を一歩前に踏み出す。
「そうだな、親父について、なんてどうだ?」




「ああ何ということでしょう。士郎くんは危篤で重体です!」
「なんでそんなことが分かるのよ! それにわたしには関係ないでしょう!」
「貴女、呪刻ルーンを落としていることお気づきになってませんの? 聞いて呆れますわね」
「そんなことはどうでもいい! そもそもなんであんたが……!」
「先ほど使い魔から報告が入りました」
「……っ」
「私の専門をお忘れ? 黒桐さん」
「……って、誤魔化すな!」
「ほほほほほほほほ!」