輪廻、果てしなく……

〜果てなき輪廻は幻想す〜






 ふと、窓の外に視線を向ける。日は既に落ち、街は夜の帳の中。その闇を退けるのはぽつりぽつりと立つ街灯と、家々から洩れ出る住人達の生活の灯り。そこに真の闇はない。そのようなものは、ここのようないなか街からすらも駆逐されて久しいのだろう。そこにあるのは、その繁栄をただただ示す人の手による星々だけ。
 石畳の小路。レンガ、漆喰で建てられ、百を超える年月に身を横たえてきた家々。古く、それでいて手入れを決して怠らず、昔々の姿を未だ残す街。わたしはこの街が好きだ。パリやマルセイユ、南のニースに住みたい、とクラスメイトが度々洩らすが、わたしはそうは思わない。この小さな街で、小さくとも幸せな、充実した生活が送れればそれで十分。いつか誰かと出会って、その人と結婚して、子供を産んで、年老いて、当たり前のように死ぬ。それでわたしはいい。そんな当たり前のような生活。それがわたしが欲しい未来。
 そんなことをいったら、よく笑われた。悪意のある笑いではなく、本当に愉快で。“あんた、頭老けてるんじゃない”ってよくからかわれて、“違うわ、わたしはもう欲しいものが決まっているの、それだけよ。”と返して、まあそんなものだとみんなで“そうね”って納得しておしゃべりして。
 ああ、楽しかったなあ。

 読んでいた本を閉じる。しおりは挟まない。もう、読むことはないだろうから。スタンドの明かりを消す。もう、つけることもないだろう。そして、わたしは自分の部屋を後にする。もう、入ることはない。
 部屋を出ると、そこは廊下。冷たくてひんやりとしたフローリングの清潔に保たれた小さな小さな回廊。生まれてきて十六年間過ごしてきた自分の家。全く暗いそこでもつまづきもしないし、壁にぶつかることもない。ここはわたしが生まれ育った家だがら、ずっとずっと見て育ったきた家だから、その構造ぐらいちゃんと把握している。それに今のわたしはこの程度の暗闇の中でも十分に周囲を見通せる。
 時刻はもうそろそろ日付が変わろうというころ。お父さんとお母さんも明日の準備を終わらせてもう寝るころだろう。

 ちょうどいい……

「あら、エレイシア。もう寝たんじゃなかったの?」
 ところがわたしの予想は裏切られ、階段を下りたところでお母さんに出くわした。
 明日の仕込みに時間がかかったのだろう。でも構いはしない。結果は同じなんだよ、お母さん。
「うん、今日は眠りにくくて」
「そう、でも明日も早いんでしょう? 早く寝なさい。若いからって夜更かしはダメ。その余裕こそが最大の敵なんですからね」
 明日?
 明日の朝なんてこない。
 夜更かし?
 夜更かしなんて言葉、本気でわたしに言ってるの?
 ああ、言ってるんだろうな。それが当然だもの。ねえ?
 だって、わたしはわたしだものね。お母さん。それはお母さんが一番分かってくれるんだよね。
「ねえ、お母さん。ちょっといいかな?」
 わたしは一歩、お母さんに近づく。
 わたしにとってもお母さんにとっても、それはいつもの通りで当然でありふれた仕草でしかない。普通、だから絶対に警戒なんてしない。だってわたしのお母さんなのだから。
「もしかして、悩みでもあるの?」
 悩み? そうだね。悩み、かな?
 いいえ、違う。お願いが、あるんだ。お母さんにお願い。
「ううん、そんなのじゃないわ」
「嘘おっしゃい、気になる子でもできたんでしょう?」
「違うよ」
 そんなことなんてどうでもいいんだよ。いたとしても、ね。
「とにかく、悩みがあるなら言ってごらんなさい。そのままじゃ眠れないんでしょ?」
「ええ……」
 眠るなんてとんでもない。ようやく眼が覚めたばかりなんだよ。まだ目が冴えちゃってて眠れないよ。ぜーんぜん眠れないんだから。
 そのまま一歩一歩近づいて、お母さんの耳元に口を寄せる。暖かい吐息がお母さんのうなじの産毛を振るわせる。ああ、もう――――
 そして――――
 惜しげもなく晒されたその白磁のような首筋に――――
 この闇の中でも白々と鈍光をてりつかせるただ突き穿つための牙を――――
 もう我慢できないとばかりに、むしゃぶりつくように突きたてた。
「エ、エレイシア?」
 わたしはそのまま血液を吸い上げる。
 赤い、紅い命がわたしの喉を駆け下っていく。とろとろと喉に絡みついて、おいしい……何度も何度もつっかえながらこくんこくんと嚥下する。
 でもそれだけじゃつまらない。だからただ血の味を楽しんでいただけの舌をてろりてろりとお母さんの首筋に這わせる。
 すべすべして、気持ちいいな。おいしいな。てろてろてろてろ嘗め回す。てろてろてろてろ弄りまわす。
「ん……は、あ……ああ、い、いや……」
 恍惚とか恐怖とか愉悦とか苦悶とかを途切れ途切れ、それでも絶え間なくお母さんに送ってあげる。
 分かるよ。だんだん首筋が桜色に染まってきたね。お母さんはお父さんと結婚したくて駆け落ちして来たんだもんね。とっても素敵。だからお母さんずいぶんと若いうちにわたしを産んでくれたから、まだまだ女なんだもんね。
 ねえ? いいでしょう?
「あ……ん、エレイシア? ……エレイシアッ!?」
 でもこの体での吸血は初めてだからなのか、なかなかうまく吸えない。そうか、この体は先ほど目覚めたばかりだから、まだ完全に吸血鬼化していないのか。それもさしたる問題ではない。こうして血を吸っていけば、その内完全に死徒の肉体になるだろう。それも一晩で事足りるだろう。
「エ、レイ……シア……?」
 だんだんとお母さんの息が細くなってくる。ごめんなさい、もう気持ちよくないの? 苦しめてしまったみたい。ごめんなさい。もう少しうまくするつもりだったのだけど。ごめんなさい。
「あな……た…………吸……血……鬼、に……?」
「ええ、驚いたでしょう? だって吸血鬼なんて御伽噺だと思ってたもの。でも、なってしまったら、こうするしかないでしょう?」
 ゆっくり、ゆっくり血を飲んでいるのに、喉をごぼごぼと震わせているのに、声は自然と明瞭に響く。
 ああ、もうそろそろ限界かな。じゃあね、お母さん。わたしも気持ちよかったよ。躯が火照って、むずむずするぐらい。わたし悪い娘だね。でもお母さんの娘だから、お母さんも気持ちよくなってるから、いいよね?
 ばいばい、最後に最高に気持ちよくしてあげる。
 牙をより深く突きさす。両手でお母さんの乳房をぎりぎりと握りこむ。爪が皮を突き破って血がしぶく。舌を動かしうなじを何度も何度も舌先でたたき、ねぶり、唾液で覆いつくす。
 体全体でお母さんを抱きしめる。お母さんの背中でわたしの乳房も押しつぶされて形を変える。ねえお母さんと同じぐらい大きいんだよ。お母さんお娘だもの。ほら、やわらかいでしょう? こりこりした先端が布越しにお母さんの背骨に何度も何度もこすれてわたし自身がもう果ててしまいそう。
「……っ! あっ……はっ……は……」
 お母さんお母さんお母さんお母さん!
 わたしも軽く達してしまう。腰がびくびく痙攣して、内ももを伝う雫がたまらなく嬉しい。
「……ねえ? 気持ちよかったでしょう? 天にも昇る気持ちだった? それとも地獄に落ちた様な快楽だった?」
 お母さんは黙として返事はない。もう事切れたみたい。でもその温もりは失われない。その暖かい余韻に浸りながら、快感の波が引いていくのを愉しむ。
 気持ちよかったね。
 でも、その余韻を長く楽しむ間もなく乱暴な足音が近づいてくる。その足音は荒々しく扉を破り開けて入ってくる。
「どうしたっ!?」
 そこにお父さんが飛び込んで来た。……少し、遅かったね。もう、お母さんは死んだよ。
 あんな幸せそうなお母さんを見れなかったなんて、お父さんちょっと間が悪いよ。
「エレイシア! 一体何があった!? なぜ……!」
 なぜ? それはもちろんわたしがお母さんの事が大好きだったから。
「ええ、こうしたの」
 わたしはお父さんに歩み寄る。
 お父さんの目からすれば一瞬の内に目の前に現れたように見えたと思う。指先一つ動かさないでわたしを見るお父さんの首に手を回し、その大きな胸板に身を投げ出す。そのままその胸に頬を寄せて、両手で抱きしめる。
「ど、どうしたんだ。何があった!? 大丈夫だから、父さんが来たから、落ち着いて話してっ……?」
 そのまま、その胸を背中から貫く。
「……エ、エレイ……シア?」
 鮮血がしぶく。びしゃびしゃとわたしの頬を叩く。口のまわりについたそれを、ぺろり、とすくいとり、ワインを味わうかのように舌の上でころころと転がす。……おいしい……。とろりとして、つん、としたにおい。あつくて、あまくて、自然と頬がゆるんで笑みがほころび、でる。
「なにが……なに……」
 お母さんと同じような反応。つまらない。
 もうお母さんで気持ちよくなったから、いいや。
 一歩後に下がる。赤い血潮がわたしの胸を叩き続ける。お父さんの体温が伝わってくる。ああ、お父さん、あったかいよ。お父さんの命の最後の灯火だから、とってもきれい。
「……お父さん?」
 お父さんも一歩後ずさる。その手のなかには無骨な鉄の塊。震える左手でそうしていれば塞がるかのように傷口をおさえているけれど、背中からも血は吹き出続けている。そして、右手には拳銃が握りこまれて、引き金には指がかかっている。少し力を入れれば引き絞られ、すぐさま無粋な炸薬の破裂する音と共に無骨な銃弾が飛び出すだろう。
「なんのつもり? わたしを撃つの?」
「い……いい、や……」
 震えるオト、今にもどろどろの血反吐になってこぼれ落ちそうな、温度のない、かすれるその喉で否定の言葉。
 頬をいびつにして無理やり気が触れたような微笑を浮かべる。
「お……前に……お、お父さんを、殺……させはっ、あっ……しない、よ」
 お父さんは言って、震える右手を自分のこめかみにあてがう。
 渇いた狂音。反動で体が泳いで、重く、湿った音を立てて床に伏す。べちゃり。お父さんはただのモノになった。
 頭に開いたあなから血が勢いよく飛び出る。噴水みたい。ああ、もったいない。せっかくお父さんが出してくれた血なのに、もったいない。だから、わたしはお父さんだったソレを抱え上げて、もったいなくてしょうがないから、全部飲み干した。頭に開いた穴に唇を寄せて、全て奪いつくそうと口付けする。
 さあ、街に出よう。時間はたっぷりとある。今夜でこの街をわたしの街にしよう。
「二人とも、立って」
 足元に転がる二つの死体に呼びかける。すると、それらは失った命以外の何かで再び力を取り戻し、立ち上がる。その目は虚ろ。なにもうつさない。
 わたしは二人の死者に命ずる。
 喰らえ、と。
「ねえ、遊びに行きましょう。家族で街に遊びにいくなんて本当に久しぶり。わたしとっても楽しみ。ほら、はやくはやく」
 くるり、と振り返って二人に呼びかける。二人はのろのろと立ち上がって、ふらふらとわたしの後に続いて家を出る。
「今夜はとても月が綺麗。いいお散歩になりそうね。ねえ、お母さん?」
 石畳の小路を歩く。わたしの隣には二つの人影。
「たくさんたくさん人がいる。今夜は思う存分遊ぼうね。お父さん?」
 わたしはエレイシア、わたしはミハイル・ロア・バルダムヨォン。
 魂という檻に手を加え、何度でも現世に還る転生無限者。アカシャの蛇、ウロボロス。
 わたしは夜の世界へと身を躍らせる。
 今回の肉体はすばらしいポテンシャルだ。前回の折に次の肉体の指定ができなかったため、単純に肉体のポテンシャルのみで選んだらしい。
 なるほど、わたしは今まで家柄というものにこだわり、最も重要なものをないがしろにしていたみたい。今度から機会があるなら十分注意しないとね。
 ともかく、この体はすばらしい。かつてのわたしと比べても遜色ない。
 さあ、此度の生を始めよう……
 ねえ、わたし、楽しみにしてるからね?