立秋とは名ばかりの暑さ、太陽が未だ権勢を誇り光と熱量を地上へ恵み瑞々しい目に映える緑は天を目指し精一杯の背伸びを試みている。
 遠野志貴はそのうだるような熱が降り注ぐ屋敷の前庭で目を細め、中天を越えやや傾き始めた輝きに目を細める。
 時刻は午後二時過ぎ。一日で最も気温が高くなる時間帯だ。そもそも立秋などと言うが、実際はこの時期が最も暑い。ものの数分もしないうちに汗が吹き出てくる。
 一年で最も暑い日の最も暑い時間。一年で最も暑い時間だ。そもそも貧血症である志貴がこのようなところで日光浴などしようものなら、それこそ志貴でなくとも今度は熱中症になってしまう。
 振り返ると屋敷の大きな玄関の前で黒猫が伺うように座っている。あの黒い毛皮でこの炎天下はさぞ苦痛だろう、と胸の中で軽く笑う。それから一度大きく背伸びをしてむせ返るような湿気を孕んだ熱気を肺いっぱいに吸い込んで深呼吸をし、玄関の日陰で待つ黒猫を抱え上げるべく短いながらも屋敷への帰路につく。
 日陰に入りとたんに直射日光から受ける圧迫感さえある熱がなくなり、急に体が軽くなる。人間は日光によって体内時計を調節する。強い日差しにさらされるとそれだけで意識が幾分覚醒するのだ。日陰に入ると日光の刺激で活性化していたものが落ち着き、志貴自身もどことなく安心したような表情をする。
 屈んで足元の黒猫――レンを抱き上げようとしたが、すばやく身をかわして避けられた。
「それもそうか。レンも暑いよな」
 苦笑し手を引っ込める。
 微かな風が吹いて二人をなでていく、体温が奪われていく感覚を楽しんでいると背をもたれかけさせていたドアのノブが回される振動を感じ振り返る。
「あれ? 何かあった?」
 屋敷の中から眉間にわずかに皺を寄せ出てきた人影は翡翠だった。
「志貴さま。外は――」
「待った。外は暑いから出てこない方がいいよ」
「…………」
 言わんとしていたことを先に言われ押し黙る。翡翠は表に出さずに小さくため息をついた。一番気をつけなければならないのは志貴の方なのに、本来ならば誰よりも無事でいることに聡いのにこういったことになると本当に自分本位なのだ。それとも他人本位なのだろうか。翡翠にはどちらか分からなかった。彼女は未だにこの穏やかな主人のあり方を掴みきれていない。もしかしたら一生、いや、彼が死ぬまで誰一人彼を定義することなどできないのかもしれない。
 しかし誰よりも自分が志貴を知っている、という自負もある。秋葉や琥珀、それにアルクェイド、シエルをはじめ彼と関わった人物は誰もが自分の中で彼を意味づけしているのだ。ならば、翡翠にとって主人である志貴を誰よりも知っているのは翡翠であり、翡翠しか知りえない志貴がいる。そんなよく思い返すとどこにだってある当たり前の結論に幾度となくたどり着き、今もまた落ち着いたところで手に持っていたタオルを差し出す。
「汗をそのままにしていると体調を崩してしまいます。それとそろそろお時間ですので居間の方にと秋葉様が」
「あれ、もうそんな時間だっけ。ごめん、ちょっと日に当たりすぎてぼおっとしてたみたいだ」
 タオルを受け取り額の汗を拭きながら微笑む。しかし翡翠は応えて微笑を浮かべるどころか、どこか非難しているような視線を志貴の黒瞳に縫い止めている。
「……以後気をつけます」
「私は何も言ってませんが……」
 突き刺さるような視線に内心背を縮めながら屋敷に戻っていく志貴の背を後ろに扉を閉めた。翡翠はそこでくす、とおかしそうに笑みをこぼした。
 目を下に落とすと足元に猫が音もなく自分を見上げている。目が合った。もう一度笑う。
「志貴さまを一人にさせてはいけませんね」
 一人と一匹は秘密の約束をしているかのように小さな声で楽しそうに一方は静やかに、もう一方は無言で契りを交わした。



月まで届け 〜 Bright Company



「それでいつごろ来るんだっけ?」
「今から一時間後といったところです。ですから兄さんもそのような格好ではなく遠野家の長男として分家に侮られない程度の身だしなみは整えておいてください」
 居間で志貴の対面に座した秋葉は子供に言い聞かせるように言って、紅茶を飲んでいる。志貴も慣れたものでそれに気分を害することもなく、むしろそういう秋葉の態度にいつも通りだ、と安心してティーカップを口に運ぶ。
 秋葉が言いたいことはつまり「今の格好のままでお客を迎えるなんてとんでもないことしないでくださいね、兄さん」ということである。妹が期待することは分かっている。それが当たり前なことであることも分かっている。しかし志貴は困ったように眉根を寄せ、唸る。
 秋葉はというと用件が済んだことを確認して座っていたソファーから立ち上がり自分も着替えやその他の用意のために部屋に戻ろうとする。
 それを志貴の苦い声が呼び止めた。
「……俺、持ってないけど」
「え?」
 そんなはずはない、といぶかしむような秋葉の視線に困ったように頭をかきながら続ける。
「だから、服。そんなご立派なものはないだろ? サイズとか合わせてないし……それに――」
 先ほど志貴が翡翠にそうしたように、今度は琥珀が志貴の言葉に割り込み断ち切った。
「あ、それならわたしの方で用意させていただきました。志貴さんのデータはしっかり取ってありますから」
 それは秋葉の分もそうなのか、と訊きたい衝動に駆られたがここはぐっと押さえ込む。が、その思考はすでに読まれていたようで琥珀からは苦笑、秋葉からは胡乱な眼差しを向けられることとなった。
「そ、そうなんだ」
「すぐに翡翠ちゃんに持って行かせますから、お部屋でお待ちくださいね」
 それならば、と志貴も自分の部屋に行くことにする。秋葉の方も今度こそ引き止められなだろう、と髪をなびかせながら部屋から出ようとする。
「秋葉」
 またか、と肩をこわばらせながら背を向けたままで問い返してくる。
「なんでしょう?」
 訊くことがあるなら最初の段階で全て訊いておいてくれと言わんばかりの態度にややたじろきながらも苦笑いを浮かべて悪びれたように問う。
 志貴の気兼ねしている様子に秋葉の方も少しばかりとがめるような目を緩めた。
「……誰が来るんだったっけ?」
 などとあまりに間の抜けた問いに肩を落とし、ドアノブを握り締めた手が白くなるほど力が込められる。片眉がひくりと震える。
「秋葉さま、そちらはわたしの方から説明いたしますのでどうぞ用意をしていらしてください。わたしも後からお手伝いに伺いますから」
「そう、それなら貴方に任せます。兄さんも今度は忘れないでくださいね」
 強く握り締めていたドアノブを回し、部屋から出る。その後姿が閉まった扉に隠されると毎度の迂闊な発言でいつものごとく進退窮まる状態に陥っていた志貴はやれやれとばかりにソファーに身を沈めた。
 その志貴の疲れきった姿に苦笑を浮かべた琥珀は志貴の前の空になったティーカップに琥珀色の香りたつ紅茶を注いだ。
「どうぞ」
 勧められるままにカップを手に取りまだ熱い液体を舌の上を通し、喉を湿らせ胃に落とす。開け放った窓から滑り込んできた風が心地よい。
 一口味わってからさっそく尋ねようと居住まいを正す志貴を待って、琥珀はティーポットをテーブルの上に置いた。
「それで今日来るって言う分家の……なんて言ったかな。忘れてしまったんだ」
「瑞持さまです。分家筋で……そうですね、そこまで大きな力を持った家ではないのですけれど、ようやく遠野の家も落ち着いてきたので挨拶のようなものでしょう。もちろんついでとばかりに秋葉さまとのパイプを構築するつもりでしょうし、そればかりではないでしょうね」
 まあ当たり前と言えば当たり前の行事のようなものですね、と何の感慨もなしに言う。
「ああ、そうだった。ありがとう琥珀さん」
「いえいえ。それでは志貴さんも用意なさってください。わたしはここを片付けてから秋葉さまのお手伝いに行きますので」
「了解」
 そう言って席を立つ。そこでふと思いついたように振り返り、片付けに入った琥珀に尋ねる。
「そうだ。その瑞持さんって当主だけで?」
「ご家族全員でいらっしゃるそうです。今の当主はまだお若いそうですから……ああ、小さいお子さんもいらっしゃるそうです。そうですねえ、志貴さんはそちらの子たちをおもてなししますか?」
「それもいいかもしれないね」
 それまでは部屋に戻って扇風機の風にでも当たって涼んでいよう。



 客人は予定通りの時刻に遠野の屋敷に訪れた。
 型どおりの礼、型どおりの会話。それをつまらないと思うものの、だからといって意味もなく腹の探り合いをしたいと思う秋葉ではない。取るに足らない分家の一つ。しかしやはりまだ若い秋葉を当主としている現状では好意的な関係を築いておくべきだ。
 瑞持の当主もまだ三十代半ばと若い。彼からしてみても秋葉は子供であるものの、他の分家の老人達よりは随分と話が通じる相手だ。
 また、秋葉に向かい合うように座っているのは彼だけでなくその妻もまた談笑の輪を作っている。もう少し硬い話合いになると思っていたのだが、この女性がいたおかげでより話が円滑になものとなった。
 そう言えば瑞持は婿を取ったと聞いていたことを秋葉は思い出し、目の前の若い女性がことさら自分に理解を示していると気づいた。
 それとも、自分が近い境遇にあった年上の女性の姿を見て心強いとでも思ったのか、とわずかに自嘲する。そうだ、もしそうならば今度は自分が都古にその姿を示さなければならない。あのもう一人の兄の妹も一人娘なのだから自分のものとは少々違うが同じようなものにぶつかるだろう。
 同時に同席していない兄は今何をしているのだろう、と考える。志貴は秋葉が目の前の二人としばらく話してから早々に席を外した。居辛かったこともあるだろうが、どうやら翡翠や琥珀が相手をしている瑞持夫妻の二人の子供の相手をしているのだろう。少なくともそちらの方が気が休まるとでも言うのだろうか。
 まあいい、とそんなことを考えるよりも目の前の相手との「交渉」に集中することにした。あまり気を抜いていると思わぬところで足元を攫われかねない。



 志貴はこれからどうしようか、と困り果てていた。居間のソファーに腰掛ける志貴の左右には瑞持の姉弟がそれぞれ座り、二人ともこの見知らぬ本家の長男がこれから何をするつもりだろう、と幼いながらも観察を続けているのだ。
「参ったな」
 この子供たちの両親と会話をするもの退屈であまり面白いとも思っていなかったのだが、こうなると今度は自分が二人の子供を前に何をするべきなのか分からなくなる。なにせ都古の相手をするにしてもまったく見当違いであったこともあって、小さな子供の相手をすることは苦手なのかもしれない、と傍に控えている翡翠は志貴が都古の相手をすることにも苦労していたと漏らしていたことを思い出して少しだけ愉快な気持ちになっていた。
 志貴が何か行動を起こすまで静かに待っている。良家の子供は本来こういうものなのかもれないと想像し、自分が彼らぐらいの年齢であったときを振り返る。すると本当に自分は不相応な言動を今でもしているのだと実感する。秋葉が心中穏やかでいられないのもこれではしかたがない。それでもそういうタイプの人間にはなれないと知っている。
「しきさま」
 右に座る小さな男の子が変わらない状況に耐えかねて志貴の手を掴む。それを止めさせようと、男の子とさして変わらない彼の姉が手を伸ばして少年の手を掴む。
「ああ、いいんだよ。そうだね……翡翠、何かないかな?」
 さてどうしようかと頭の中でレパートリーをさらうものの、結局何も考えつかずに翡翠に助け舟を求める。すると翡翠は「少しだけお待ちください」と言って姿を消した。
 すると状態はまた振り出しに戻る。いやそれ以上に弟の方はもちろんのこと、その弟の手前我慢しているのだろうが姉の方も暇を持て余しうずうずと何か楽しいものを探そうとしている。
 結局彼らは最も都合のよい暇つぶしの対象に志貴を選択し、弟の方ははっきりと、姉の方はやや気兼ねしながらも志貴の服の裾を掴み親戚のお兄さん”に娯楽を要求しようという結論に達した。
 非常によくない。このままでは自分がひどく無能者な気がしてしまう。別段子供の相手が苦手な人間が珍しいわけでもないのだが、そうは言っても目の前に問題がある以上、話の上で苦手と語る時とはまた別である。
 姉の方でまだ六歳、弟は四歳だそうだ。今までおとなしくしていただけでも驚きなのだ。しかしそれに甘えていては年長者としての自尊心というものに要らぬ傷が入るとばかりに志貴は必死にどうすればよいのか考える。難しいことを考えずに彼らが話したいままに話をさせて対応すればいいのだが、自分が何かせねばならないという考えに囚われるとこうして悩みこむことになる。
 いい加減もう限界かと思ったそのとき扉が開き、救世のメイドの帰還にほっと胸を撫で下ろす。
「ありがとう翡す……」
 そこまで言って顔を上げたところで喉に物が詰まったかのように言葉がしぼんで消えていく。左右の二人も正体不明の闖入者に目を丸くし、それから警戒、次に期待へと変化させる。
「やっほー、あれ? その子たちって志貴の何?」
「アルクェイドか……」
「ちょっと、何よ。そんなにがっかりしちゃって。ちゃんと玄関から入ってきたわよ」
 それは結構、と呟いて入ってきたアルクェイドの背後に目を向けると、突然の訪問にやや戸惑いつつももう慣れたといった表情の翡翠が続いて入ってくる。
「そうか、翡翠が案内したのか。ありがとう」
「いえ、それがわたしの役目ですし……」
 言葉ではそう言いながらも翡翠自身はアルクェイドとはそれなりに仲がいい。どちらかと言うとアルクェイドが翡翠を振り回しているのだが、そういう元気のよさが本来闊達な翡翠には心地よいのだろうと志貴は思っている。
「ああ、この子たちは親戚の家の子だよ。今日用事があってここに来てるんだ」
「ふうん、じゃあ妹がここにいないのはそういうことか。あ、そうだ。翡翠が何か志貴に持ってきてたよ」
 アルクェイドの言葉に押されるように翡翠は志貴の前に歩み寄って大事そうに抱えていた物を差し出す。
「サンキュ。本か」
 これを読んで聞かせろということか。なるほど、ベーシックだが古来より親しまれ、かつ教養方面にも優れた手法だ。
 志貴の手の中にある一冊の本を覗き込んだ少女が志貴の顔に視線をずらし、どこか期待に弾む声で問う。
「ご本ですか? でもわたしもう字を読めます」
 ぷん、と少しばかり意地を張って思わず覗き込んだことを抗弁する少女の様子に頬を緩め、志貴はページをめくる。弟の少年はと言うと姉ほどはものを言わないものの、やはり何か新しいものに興味を示している。
 アルクェイドは一緒に志貴が読むのを聞いていようと思い志貴たちから正面にあるソファーに翡翠を引きずるようにして座る。翡翠は自分も座ることに抵抗を示したが、アルクェイドの勢いに押され結局座ってしまった。それに志貴の語りに興味があったこともあっさり座ってしまった理由の一つだ。
「知らないものかもしれないよ。とりあえず読んでみようか」
 そう言って笑いながら表紙を開き、ページをめくる。タイトルがどこにも書いていないので志貴自身何の話なのか分からない。だから志貴もまたこの物語がどんなものか気になっている。翡翠が持ってきたものだからそう変なものでもないだろうと安心してもいた。
 一行目を読み上げる。
「いまは昔、竹取の翁といふもの有けり。野山にまじりて竹を取りつつ……え?」
 一度そこで文字を追うことを止める。するとどうかしたのか、という四対の視線を受けこのまま止めることが何か悪いことのような気がして続ける。
 姉弟はまったく知らない物語だと思い聴く姿勢になっている。アルクェイドはそもそも志貴が語る姿を楽しむつもりなので続行を待っている。これを持ってきた翡翠は志貴がそこで止めた理由が分からずに不思議そうな顔をして、やはり志貴を見つめる。
「野山にまじりて竹を取りつつ、よろづの事に使ひけり。名をば、さかきの造となむいひける。……なあ翡翠」
「なんでしょう?」
「なんでって、いやなんで古典?」
 いくらなんでもそれはないだろう。これをどうして持ってきたのか、本気で理解に苦しみ根本的な疑問を口にする。
 しかし問われた翡翠はこちらもまた志貴がなんで悩んでいるのか皆目見当つかぬと首を傾げたが、思ったことを率直に口になどせず頭を下げる。
「申し訳ございません。すぐ別のものを持ってきます」
 そう言って立ち上がろうとしたところを止める。この調子ではまた別の古典作品を原文で持ってきかねないという懸念があってのものだったが、翡翠を何度も行ったり来たりさせることにも気がとがめる。
「いやいいよ。それよりどうして古典なんかを?」
「はあ、姉さんやわたしはそれを聞かされてましたので……」
「なるほど……」
 ここ遠野家では子供には最初から古典を聞かせるのか。それなら翡翠の価値観がそういうものになって、それが常識と勘違いしてしまっているのも頷ける。
 手の中にある古典作品をしばらく眺めてからこの物語の正体を確信する。最初の一文で見当は付いていたので確認程度のものだったが、その間にどうしようかなどと算段をつけることにした。
「そうだな。かぐや姫は知ってる?」
 すばやくページをめくる志貴の傍らから覗き込んでいた少女に問う。彼女は志貴に尋ねられたことに気づいてあわてて首を縦に振る。
「は、はい。竹の中からかぐや姫が出てきておじいさんとおばあさんに育てて貰って……ええと、それから結婚しないって言って最期にお月様に帰るお話です」
 やはり「かぐや姫」では大方そのあたりなのだろう。それならば、と提案してみる。
「かぐや姫は本当は竹取物語ってお話を簡単にしたものなんだ。これは昔の言葉で書いてあるけど……今の言葉に直してかいつまんで読んでみようか」
「本当のかぐや姫? じゃあわたしが知ってるお話は嘘なんですか?」
「いや、嘘じゃないさ。ちょっと簡単に短くしてるんだ。……どうしたアルクェイド?」
 話に割り込むように身を乗り出して志貴の持つ竹取物語を覗き込んでいたアルクェイドに、何を突然ここまで興味を示したのかとばかりに苦笑する。
「んー、なんでもない。それよりほら、早く読んで読んで」
「はいはい」
 やれやれと綻んでから覚えている内容を元に飛ばし飛ばし読み始める。
 姉や見知らぬ大人があれこれ言っているせいか何も言うことができずに退屈そうな弟の頭を撫で、一度咳払いをして竹取の翁が竹の中から小さな姫君を見つけたところから語る。
 二人ともおおよその話は知っていたのだが、自分たちが知るかぐや姫と比べ一つ一つの場面で描写が多く、またより多くの人の悲喜交々に興味津々といった様子で聞き入っている。
 翡翠は心地よさそうに目を閉じて志貴の語りに耳を向けている。アルクェイドは志貴が思わず軽く笑ってしまいそうなほど真剣に何か一生懸命考えながら聞いている。何かの参考にしようとでもいうのだろうか。それともアルクェイドにとってはやはり未知の物語である。映画にあれほどの興味を示した例もあった。もしかしたらこれを機に日本だけでなく各国の古典を漁るようになるかもしれない。そう考えるとこうして聞かせるのも楽しいかもしれない。
 アルクェイドにかぐや姫を演じてもらうのはどうだろうか。いや着物ならやはり秋葉が長い黒髪もあって似合うだろう。

「五つの難題?」
 アルクェイドが志貴に問い返す。
「そう、かぐや姫は求婚する五人の貴公子にそれぞれ難題を出したんだ。これを見事クリアしたら結婚も考えてあげますってこと」
「なんだい、って何ですか?」
「なんだい?」
 小さな姉弟が首を傾げる。さすがに知らない言葉のようだ。賢そうな少女であったがいくらなんでも六歳ではしかたないだろうと言い直す。
「とっても難しいお願いをしたんだ。あなたにはこれ、あなたはあれって具合にね。本当に難しいからこそ、これを解いた人はそれだけかぐや姫と結婚したいんだってかぐや姫に知ってもらえるんだよ」
「どんなお願いをしたんですか?」
「うん、それぞれ仏の御石の鉢、蓬莱の玉の枝、火鼠の皮衣、竜の頸の玉、燕の子安貝を持ってきてくれってほとんどでたらめなことを言ったんだ」
「どこにあるんですか?」
 予想以上に興味を示してくれた。そのことに軽い達成感のようなものを感じた志貴だった。しかしこの物語の大部分を占める「五つの難題」である。ここは一つ詳しく説明してみようではないか。
 しかしあまり詳しく話しても理解することは難しいかもしれない。やはり多少は簡潔にすべきでもある。それよりも今は質問に答えることにしよう。見てみればやはりアルクェイドも興味がありそうだったので笑みを絶やさず説明することにする。
「仏の御石の鉢は天竺にあるそうだね。天竺って分かるかな?」
「はい、西遊記で三蔵法師が行くところですよね?」
「うんそう、でも本当にあるかは分からない。この問題を出された石作皇子はずるをしたんだ。天竺は遠い。命がけでも手に入れられるか分からない。そこで別の石の鉢を持ってきたんだけど偽者ってばれちゃってね。失格」
 ふうん、と少年がうなる。何か感じ入ったことがあったのかと尋ねると嬉しそうに頷いてこう言った。
「ウソついたからきらいになったんだ」
「うん、まあそんなところ。次に蓬莱の玉の枝。これも似ていてね。蓬莱っていう山に行かないといけないんだけど車持皇子もずるをして人に作らせちゃったんだ。これもばれて失格」
「ねえ志貴。天竺ってインドのことだよね?」
 と、突然訊いてきたアルクェイドに顔を向ける。その顔はやはり気難しげに曇り、なにをそんなに真剣になっているのか考えてみても分からず志貴の方も頭を傾ける。
「そうだけど……実際のインドかは分からないぞ。どっちかと言うと本物のインドじゃなくて別のどこかだろうな。それにそれを言うなら蓬莱だってそうだ。仙人が住む山みたいだしな」
「……うん、まあいいわ。続きお願い」
「ん? ああ、それじゃ次いこうか」
 左右の子供に確認をとり、二人が頭を立てに沈めたのを認めてから三つ目の難題の説明をする。
 難題で求められるものは全ていわゆる「宝物」であり、彼らはおろか志貴や翡翠の想像力でもいまいち実態が掴めない。それでもかぐや姫が出したものがどれほど無理難題であるのか言葉の上では理解している。無理と言うよりは不可能なのだ。現実に存在しえないものを手に入れて来いとなどと、それはもう言いがかりだ。そういう意味では石作皇子や車持皇子は小聡い選択をしていたとも言える。結局は不正による資格剥奪になったとは言え残りの三人のうち二人の結末からすればよほど救いがある。
「今度は火鼠の皮衣。これを持ってくるように言われたのは右大臣安部御主人という人でずるはしなかったんだ。けどお金を積めば手に入ると思って人に持って来させようとした。何年かかかったんだけどついに手に入れてかぐや姫に贈ったんだけどこれがとんだ偽物でね。伝説なら絶対に燃えないはずなのに燃えちゃったんだ。そうしたらすごく落ち込んじゃって帰ってしまった」
「それはかわいそうです」
 痛ましげに表情を曇らせる少女に軽く同意を示し続ける。
「そうだね、でも完全に人任せにしてしまっては駄目だってことだと思うよ。それと本物か偽物か見分けずにあっさり信じ込んだのもいただけない。ずるをしなかったってことはいいことだと思うけどね」
「志貴、次」
 ますます冷めていくアルクェイドに肩をすくめつつ次の難題、竜の頸の玉と燕の子安貝を続けて説明する。
「竜の頸の玉っていうのはその通り竜の首にある玉で大納言大伴御行という人がお願いされたんだ。この人は勇敢にも自分で竜のところに行こうとしたんだけど結局失敗してしまった。しかも竜の呪いで病気になったり離れている間に家がメチャクチャになってて家に引きこもってしまったんだ」
 続けて最後の難題を間を置かず説明する。
「最後が燕の子安貝。お願いされた人は中納言石上麻呂。燕の子安貝っていうのは燕が子供を産むときに一緒に産む錦の貝らしいよ。この人は大勢の家来と一緒に一生懸命探し回った。どの燕が産むんだろうって考えていたら近くに巣が作られたからそれを見張ることにしたんだ。今だというときに本人が綱で上って取りに行ってついに見つけるとこまでいったんだよ」
「え? みつけたの?」
「はは、実はねその後綱から落ちたんだけどしっかり握っていたから大丈夫って思って手を開いたらなんと燕の糞だった。それですごくがっかりしてしまって寝込んで、最後には死んでしまうんだ」
 そのあまりにも不憫な最後に姉弟は不満そうに唇を尖らせる。アルクェイドは相変わらずで翡翠もこの部分の話はあまり好きでないのだろう。
 誠実であったはずなのに最後には死んでしまう。正直者が馬鹿を見るとは言うもののこれではあまりにも報われない。翡翠にはその姿が志貴と重なって見え、なおのこと心配になるのだ。いつか志貴も誠実であるが故に命を落としはしないか、誰かのためにあたら命を捨てていまうのではないかと胸を締めつける。
「けどこのことを聞いたかぐや姫はこの石上麻呂が死んでしまったことに悲しんだんだ」
「自分でお願いしてたのにひどいです」
 石上麻呂の死に納得がいかないとばかりに姉弟はさらに腹を立てている。翡翠もそうだった。この話を聞かされたとき琥珀や秋葉と共に家庭教師になぜそうなってしまったのかと問い詰めた。
 家庭教師は困ったそぶりも見せず、こう応えた。「彼は誠実でよい人物だったが、それだけでは駄目なのだ」
 納得しなかった。ならばなぜ他の卑怯な真似をした二人の皇子は無事で、勇気のある大納言や誠実な中納言がこうも不遇になればならないのかと問うた。彼はこう応えた。「危険を冒すとはそういうことなのだ。虎穴に入らずして虎子を得ることはできない。だが虎穴に入ったら虎に食われる危険も付きまとうのだ」「この難題はそれぞれ難しさが違うが、二人の皇子の不実も右大臣の怠慢は問題外である。大納言と中納言はその段階を越えてはいたが、しかし能力が足らなかった。虎穴に入らなかった者と入って虎に食われた者の違いだ」
 ならば無能が罪なのかと琥珀が問うた。試練を越えられぬことがそもそもの罪であるのか、と。教師は応えた。「罪ではない。この到底不可能な問題を突きつけたかぐや姫こそが罪を負うべきだ。しかしまったくの無責任でもない。五人の貴公子たちもまた試練を受け入れるとしたからには己の能力に責任を持たなければならない」
 彼らにとって断れることのできない試練だったはず。押し付けられ避けられない試練を乗り越えられないのは、それもまた本人の罪であるのか。琥珀は消えるような声で問い詰めた。「ものに拠る。それを決めるのは試練を受ける本人だ。彼、彼女が自らを責めるならそれはきっと罪なのだろう」
 そこで問答は終わった。当時のことを思い出した翡翠はなぜ琥珀がああも家庭教師に問いかけたのか今になって分かった。ああ、あの時はまだ姉はあきらめていなかったのだと。しかしあそこで自分が気づけば琥珀はどうしただろう? 翡翠が真実を知らなかったからこそ琥珀は耐えられたのではないのだろうか。
 琥珀に無理難題を知らずに押し付けたのは自分自身なのだ。罪深いかぐや姫と何が違うのか。しかしこのことを琥珀に話せばきっとあの姉は許すのだろう。志貴や秋葉とてそうなのだろう。誰も糾弾すらしてくれないのだ。
 琥珀は難題を解く術を見つけ、それは本当は間違っていたのだけれど何年もかけて、たくさんの人の助けを得てその上で本当の正解を出せたと翡翠は信じている。
「――かぐや姫は帝と文通をしても決して帝のところには行こうとはしなかったんだ。そうしているうちに何年か過ぎて、八月の満月が近づくにつれて空にある月を見て泣くようになった。ここから先はよく知ってるよね?」
「はい。月に帰らなくてはいけないんですね。それでみんなが邪魔をするけど、月からのお迎えが来て帰ってしまいます」
 沈鬱としていた翡翠は志貴の語りがもう大分先に進んでしまっていることに気づいて慌てて耳を傾ける。どうやら物語りは終わりに向けて転がりだしたようだ。
 アルクェイドはもう何を言っても動かないだろう。だから放っておくことにした。姉弟はここからは知っているとばかりに誇らしげに胸を張り志貴の語る竹取物語の最後のシーンを聞いている。
「八月十五日ばかりの月に出で居て、かぐや姫いといたく泣き給ふ。……ここの部分だね。人目も、いまは、つつみ給はず泣き給ふ。これを見て、親どもも『なに事ぞ』と問ひさわぐ。かぐや姫泣く泣く言ふ……」
 志貴が古い言葉で物語を語る。姉弟も翡翠も、今の言葉とは違うこの不思議な韻乗った幻想の伝説に身を横たえる。
「――百人ばかり天人具して、昇りぬ。……こうして天の羽衣を着せられたかぐや姫は天に還っていったんだ」
 絵本ではかぐや姫はここで終わる。しかし竹取物語ではまだページが残っているのだ。残された物はかぐや姫から渡された文と不老不死の薬。永遠に変わらない不老、永遠にあり続ける不死を叶える秘薬。それを帝は手にしていた。
「それで帝はどうしたと思う?」
 志貴が子供に問う。
 姉弟は不老不死とは何かと問い返す。
「ずっと死なないことだよ」
 それならば飲んだはずと二人は答えた。しかし志貴は首を横に振る。
「どうしてですか?」
 分からないと姉の方が尋ねる。
「この最後に残された手紙を読んでね。帝は本当にかぐや姫が自分のことを好きだったんだって知ってしまったんだ。帝の悲しさはいっそう強くなる。食べ物も喉を通らないほどにね」
 そして帝はある日伴の者に尋ねた。
「一番高い山はどこなんだろう、ってね。世界で最も月に近い場所はどこなんだろうって訊いたんだ」
「どこなんですか?」
「訊かれた人はこう答えたんだ。それなら駿河にある山が一番高いでしょう。……そしたら帝はこう言った。姫に逢えないというのならそんな不死に意味はない。不老不死の薬はその山の頂上で燃やしてくれってね」
「もやしちゃったの?」
 少年がもったいないと自分のことでもないのに残念そうに呟く。
「それから何日か後、その山から煙が昇っていったんだ。不死の薬を燃やした山。不死の山。この山は今どこにあると思う?」
「ほうらいの山ですか?」
 しばらく前に出た山の名前に苦笑しつつ回答を口にする。
「いいや、日本にちゃんとあるよ。不死の山。不死山。……日本で一番高い山と言ったらどこかな?」
「富士山!」
 はっと気づいた少年が嬉しそうに正解を口にする。それを見て、そうそう、と少年を誉める。
「その通り、だから富士山って言うんだよ」
「初めて知りました」
 驚く少女に志貴は先ほどの疑問をそのまま返す。
「なんで帝は不老不死の薬がいらなかったんだろうね?」
「ええと、その……寂しいから?」
「そう、一人だけの永遠はきっとすごくつらいんだ。俺にもそれがどんなものか実感はできないな。でも、終わらないっていうのは始まったことを否定しているんだ。物事にはね、始まりと終わりがあるんだ。今までたくさんの王様が不老不死を求めたけど、この帝は数少ない手に入れることができる人だったんだ。それなのに捨ててしまった。その本質に気づいたから」
 噛み締めるように言う志貴の言葉を二人の幼い姉弟は理解し切れていないだろう。しかしこの話は志貴にとっても他人事ではない。いつ自分に降りかかるか分からない問題でもある。シエルのことを思い浮かべる。彼女は望まずに不老不死を押し付けられた。今となっては過去のことだが、その絶望をよく知る人間には違いない。そして、アルクェイドも。
「下手に永遠なんて手に入れると退屈してしまうんだ。終わるってことはとても大切なことなんだよ」
 やはりよく分からないといった顔で志貴を左右から見上げている。
 ちょうどそのとき扉がノックされ琥珀が居間に入ってくる。どうやらあちらの話も終わったらしい。
「うん、ちょうど読み終わったことだし……」
「あら、本を読まれていらっしゃたんですか。瑞持さまがお帰りになられますのでどうぞ志貴さんもこちらにいらしてください」
 やはり呼び出しに来たらしい。翡翠も立ち上がる。
「あ、譜視さんと想太さんもこちらにどうぞ。アルクェイドさんはちょっとこちらでお待ちいただけますか?」
「うん、分かった」
 黙りこくっていたアルクェイドも琥珀の要請に快く応じる。
「それじゃあ、ちょっと待っててくれアルクェイド」
 と志貴も部屋を後にする。しかし先ほど琥珀に返事をしただけで微動だにせずテーブルの上に置かれた竹取物語を注視している。
 これはもう仕方がないと肩をすくめ部屋を出る。

「あの志貴さま」
 送り出すときになって姉の方が弟の手を引いて志貴に歩み寄る。
「その、ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 弟も姉の真似をして志貴に頭を下げる。頭を掻きながらいいや気にしなくてもいいよと答える志貴に、言い難そうに難題ではないがお願い事をする。
「……さっきのご本……が……」
「少々お待ちください」
 彼女が何を言わんとしているのか察していない志貴の傍ら、翡翠はすばやく居間に戻りアルクェイドが睨んでいる竹取物語を手に玄関へと戻ってきた。
「……どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「翡翠、いいのか?」
 ようやくことの次第に気づいて問う。翡翠は軽く首を傾けて薄く微笑んでから、いいんです、と何か吹っ切れたように大きく息を吐いた。
 後で琥珀と読んでみようかとも思ったのだが、もういい。これは自分の胸にそっとしまっておこうと決めたのだ。
 瑞持一家が乗り込んだ車が遠野の屋敷から去っていくのを見送りながらそろそろ沈もうかという太陽の赤い夕日にエプロンが染まり、顔も紅潮して元気だといわんばかりだ。
 それはが夕日のせいだけではないということは、志貴にはきっと分からないのだろう。そんなことを考えて翡翠はくす、と笑った。
「あら、何かあったの翡翠ちゃん」
「いえ、何でもありません」



 居間に戻ると未だにアルクェイドは難しい顔をしていた。子供たちがいなくなってようやく相手をできるようになったのに志貴が戻ってきてもこの調子だ。一体どういう風の吹き回しだろうと訝しむ。
「わたし、あの話知ってるわ」
 いきなりである。志貴も思わず言葉を失う。この場には今は志貴とアルクェイドしかいない。琥珀も翡翠は後片付け、秋葉は部屋に戻っている。なお、秋葉はアルクェイドが来ていることをまだ知らない。
「なんだよ、知ってるって。読んだのか?」
「違う。志貴、あの不老不死の薬だけど、あれ多分かぐや姫の血よ」
「へ?」
 突拍子もない発言に思わず間抜けな応え方をしてしまう。しかしそんな志貴の様子にお構いなしと続ける。
「月からの使いが差し出したってあるけど、あれは都合のための装飾ね。爺やが言ってた。わたしたちが発生する地点はほぼ決まってるんだけど、本当に極稀にまったく関係のないところで真祖が発生することがあるって。そういう真祖は見つけ次第何人かで迎えに行くの」
「つまり、かぐや姫は真祖って言いたいのか?」
 そんな冗談みたいな話にあきれたように脱力してソファーに座り込む。
 かぐや姫が真祖だなんて考えたこともない。そもそもこれは御伽噺に分類されるもので、とそこまで考えて待てよ、と止まる。それを言うならば吸血鬼も似たようなものではないか。
「ああ、だから不老不死の薬がかぐや姫の血液ってわけか。そうか天の羽衣って……」
「そうね、全くの異国の服ならそういう風に取られもするでしょうね。これを着たらもうこの世界の住人ではいられない、ってのもそんなところよ」
 それと、天竺も蓬莱の山もおそらくそこの主である精霊が作り上げた異界だろう。妖精郷や幻想郷、常春の国の類だと言って、千年城もその一つだと付け加える。
「もしかしてまだどこかにかぐや姫が生きているとかあるのかな?」
 冗談めかして言う志貴にアルクェイドは首肯する。思わぬ肯定に驚く志貴に渋い茶でも飲んだかのような渋面で応じる。
「ちょうど千四百年ぐらい前と聞いたわ。でもなんだかんだで百年ぐらいしてからどこかに行ってしまったそうなの。もしかしたら帰って来てるかも。僻地で発生した真祖を迎えに行った話は時々あるけど、こんな風に帰って行っちゃったって例はほとんどないの。だからわたしもこれを聞いたときなんでって爺やに訊いたんだけど……教えてくれなかったのよ」
 肩をすくめてため息をつく。それから寂しげに笑ってこう続けた。
「でも、今なら分かるかな。そのおじいさんやおばあさん、それにその帝みたいな人がかぐや姫にもいたから。わたしには志貴がいる。レンもいるし、気に食わないけどシエルもいて、妹も翡翠も琥珀もいる。きっと、わたしも帰りたいと思う。ここに誰もいないと分かっても、ここに帰ってきたいと思う」
 永遠の苦しさ。それを今最も実感しているアルクェイドの言葉に何を返していいのか。志貴は口をつぐむ。
「でも、帰ってきて後悔しているのかなって、気になったんだ」
「会ってみたい?」
 志貴の問いにこう答える。
「ううん、多分会わない方がいい。少し、怖いのかもしれない」
「そもそもまだ生きているのかな?」
 志貴の根本的な問いにアルクェイドは多分、と返す。
「吸血衝動は純度に比例するの。それだけ純粋だから。そしてそれを力で押さえつける。この力の総量も純度に比例するから真祖の寿命って大体のところで決まってるんだけど……このかぐや姫みたいに妙なところで発生した真祖って純度がやっぱり低いの。突然変異に近いって爺やは言ってた。それでこのかぐや姫のことだと思う真祖は純度はとても低いのに力は純度が相当高い真祖と同じぐらいあったんだって。だから、まだ生きてるかもしれない」
 そうか、と呟いて二人ともこれ以上何も言わずに沈黙が降りる。
 しばらくしてぽそりと漏らす。
「つらいな」
「うん」
 短いやり取りが一度あったきり、再び時計の音だけが、時を刻む音だけが部屋に反響している。
「だから、わたしは後悔しないようにする」
「きっと、楽しいよ」
「そうだね、そしてたくさん楽しい夢を見る」
「それまで」
「うん、それまで」
「それまで、何をするんですか兄さんたちは?」
 声に振り向いた二人の視線の先には腕を組んであきれ返った目つきで微笑みあっていた二人を見返していた。
 その背後にはしょんぼりとした翡翠がいる。ああ、止め切れなかったのかと、そしていつもの、そう大切ないつものことだと志貴はなんだか嬉しくなった。
 アルクェイドも嬉しそうに立ち上がって秋葉に抱きつく。
「ちょっ、いきなり何のつもりですかあなたは!」
「まーそんなこと言わない言わない。せっかく来たんだし楽しもうよ」
「何なんですか貴方は! いつもいつもそんなワケの分からない行動ばっかりで……!」
「それもそうだな。よし、先輩も呼ぼう。琥珀さん今日はちょっと豪華にしよう」
「はいはい、承りました」
 いつの間にかそこにいた琥珀と今夜の予定を打ち合わせをする。その間に翡翠は電話の受話器を取り上げる。
「大体ですね! 貴方はいつもいつもどうしてそう挙動不審なんですか!」
「わたしにはわたしの事情があるのよ。気にしてくれるんだ。……ありがとう」
「……っ! 誰がっ!」
 さて、今夜もめいいっぱい楽しもう。その前にまずは普段着に着替えてこよう。
 自分の部屋に戻る志貴にアルクェイドも秋葉も気づいていない。
 窓の外に目をやった。月が出ている。八月十五日の満月も近くなってきた。