闇月夜 19/庭園 |
「面白いついでにもう一つ」 人差し指を立て、騎士は言った。 「彼女の経歴に一つ、疑問点があるはずだ、あるね? あるだろう? そう、ある」 神父の返答を待たずして男は続ける。 「リィゾのやつが彼女を回収しに行った時のことさ。彼女が彼に危害を加えたかだって? いやいやとんでもない。虫の息さ。そう、虫の息だったそうだよ。当然だがね」 どういうわけかその事実が面白くてたまらず、どう面白おかしく伝えようかとあれこれ遠まわしに話す彼――フィナ=ヴラド・スヴェルテンの傍らには侍女が一人、彼がついている卓の対岸には神父と男――メレム・ソロモンとカリー・ド・マルシェがいた。 彼ら二人は客人として騎士によってもてなしを受けていた。神父はそれが当然とばかりに、男は内心恐々としながらも毅然とそれを受けた。 「ほう、それは確かに疑問ですが……なんと、貴方は我々にその秘密とやらを教えてくれる、と」 「秘密? 秘密だって? 違うよ、これは君達には秘密ではないな。報酬だよ、先払いだがね」 それに、ここに居ればどうあれ知ることになる。 続く騎士の言葉に再び片眉を僅かに動かし、神父は重ねて尋ねる。 「つまり、それを聞けば引けないというわけですか。それは困った。ナルバレックを殺せ、などと言われたら進退窮まる」 「それこそまさか、だ。見くびらないでくれ。君に可能なことでなければ依頼などしない」 「ふむ、いいでしょう。聞かせていただきましょう」 卓の上で両手の指を絡ませ、促す。 受容の応えを受け、騎士は侍女に差し出された飲み物で軽く舌を湿らしてから口を開く。 「一年もの間、成りたての死徒が吸血行為を行わずなぜ肉体を保ったのか。いやなに、遺伝子の欠損は問題なかっただろうけどね。そこはさすがに成りたて、それもグールを介さず己が肉体を保ったそのままだ。しかし肉体の維持には相応のエネルギーが必要だということは変わらない。この場合多くは血液だね。これは遺伝子の補給の観点からもそう効率は悪くない。あまり期待もできないけど、補給はできる」 そこまで確認をとり、対面に座る二人の気色を伺う。それからフィナの無言の支持を受け、侍女――センティフォリアはメレムとカリーの前にグラスを置き、真っ赤なワインを注ぐ。 「芸がなくて悪いけど、それで祝杯を上げよう。それが一番、彼女にはふさわしい。ああ、ここまで話した分は問題ないね?」 沈黙を肯定と受け取り、続ける。その傍らでは彼自身のグラスにも同じアルコールが注がれた。 「そう、彼女は人からエネルギーの補給を絶対的に拒否してきたんだ。それではすぐさま破綻する。でも現実には彼女はギリギリのところで自分を保っていたわけだ。……そう、どこからか補給していたんだろうね」 そんなことは分かっていると言いたげな二対の眼――メレム・ソロモンの両の目は無色で、いかなる色も見せない――に彼は肩をすくめる。背後に控える侍女に首だけで向き直り、以外だと言う顔をする。 「おや、もしかして君も聞いていなかった?」 「はい、その件については私は何も伺っておりません」 ああ、そう、と返してメレム達に向き直る。 「失礼、どうやらリィゾのやつこの調子だと姫様にも報告し忘れてるんじゃないだろうな、やっぱり。あの後僕の方から報告しておくべきだったかな? いやそれにしてはサツキを評価していたわけだけど、ああ、御自身でお気付きか」 そこでふと思考を止め、苦笑を浮かべる。 「ああ、また失礼。見苦しいところを見せてしまったね。それでね、実の所彼女はマナを糧としてたらしい。馬鹿な話だと思うかい? 実に馬鹿げてるね。真祖じゃあるまいし。で、その手段なんだけどね、リィゾは彼女の補給源に気づいてからしばらく観察していたらしい、それこそ本当に限界が来るまで、ね。死んだそうだよ、何度も何度もね。ただ死にきる直前、意識が弾ける瞬間ってのは深層意識が表在化する。つまり――」 「固有結界ですか」 フィナの言葉を遮ってメレムが呟く。その顔は難し気な様子でありながら、その実そこまで驚いているようにも見えない。 「そう、異界を一時的、限定的、刹那的に瞬間起動、必要最低限のマナを喰らった後意識が覚醒、そしてまた瀕死の時間に逆戻りさ。別に固有結界そのものはそう珍しくもないけどね、あの若さで無意識の内に使われると、いや、立場のない連中が多くてたまらない」 軽く頭振り、苦笑とも嘲笑とも取れる笑いをこぼす。 言葉もないカリーと違い、至って平静にその事実を受け止めたメレムは未だ杯の中の液体には口をつけていない。 「――なるほど、それが依頼ですか」 冷たく。 「――そう、それが僕からの依頼。情報の対価」 乾いて。 「――確かに、それが真実ならばアインナッシュにとってこの上ないカウンターですね」 モノの如く。 ギリ、と牙の軋む音が響く。体の前に持っている盆が悲鳴を上げている音もする。おそらくその腕も僅かに震えていることだろう、と背後を見もせずに認めて口を開く。 「君はここにいるんだ」 「……かしこ……まりました」 自身を捻じ伏せ叩き落とし殺す声に頷き、神父に問いかける。 「それで、やってくれるかい?」 決して強要ではなく、強制でもなく、ただの要請。神父にしてみれば別に先程の取引など反故にしてしまっても構わない。それならそうと肩を震わせる侍女が安心し、白騎士は残念そうに諦め、自らの手で為すだけだろう。 だが――。 「いいでしょう、ついでとばかりに中心部への道案内の真似事でもして差し上げますよ」 ばきん、と破裂音がして鋼鉄製の盆が砕けた。 押さえに押さえ、腕の力すらも出すまいと抑えていてもこれか、とメレムは呆れた。それとも、真祖の姫君に同じことをしようとする不届き者を止められない時、自分も同じような無様をさらすのだろうか? ふむ、そうか。なるほどなるほど、自分はあの少女に協力がしたがっているのか。ロアのただ一人の眷属、ひいてはアルクェイド・ブリュンスタッドただ一人の系譜である新米死徒へ肩入れがしたいのか、この私、メレム・ソロモンは。 なかなかに喜ばしい。とメレムは内心ほくそ笑む。そのような縁を作るのもいいだろう。よもするとこれからの身の振り方に影響してくるのだろうが、そも保たれていた均衡ももはや崩壊を待つばかり。 それにしても、獅子は我が子を千尋の谷に突き落とし、這い上がってこれた者だけを育てるとも言うらしいが、他人に突き落とさせるものなのか、と小首を傾げたくもなる。 まあいい。姫君の眷属であるのならば千尋どころか万尋であってもさらに成長して帰ってきて貰わねば困る。 「それでは少々失礼しますよ。祝杯には今しばし待っていただきますが。そうそうカリー、貴方も粗相のないように」 「しないわよ」 いささか詰まらなさそうなカリーの声を後にして、メレムは端末としての左腕の魔獣から意識を本体に戻した。 探せばすぐに見つかった。 地に届くかんばかりの長い栗色の髪を左右で二つにくくり、その二本の尻尾を右へ左へと揺らしながら歩く、縞模様の上着に袖の無いジャケット、膝の上までを覆うソックスに裾の広いショートパンツを身に付けた少女が注意深く、不用意に歩いている。服がところどころ破れているのは本来の捕縛対象との戦闘でもあったのか。ならば勝利を収めたのだろう。 先ほどの邂逅からそう離れていないところで未だ迷っていたため発見は容易だった。そこからさらに離れたところで捕縛対象が移動しているのも分かっていたが、もはやそのようなものどうでもいい。 音も無く、背後に回る。 気配も無く、右手の爪で狙いを定める。 匂いもなく、少女の首筋から想いの人の痕跡を嗅ぐが、それは残念な結果となる。 戯れのように、刃と化した右手を心臓めがけて抉り出す。 ――ぐちゃり。 このとき初めて少女、弓塚さつきは彼の存在を知ったのだった。 ごう、と風が悲鳴を上げる。 ばさり、と木々が崩れ落ちる。 ぎいぎい、と森が啼いている。 目を開いたときにはもう、一面ただの砂漠だった。 触れたものは何もかも砂になってしまった。木も蔓も草も土も風も空も何もかも。ここにあるのはわたしだけ、わたしがわたしと認めたものだけが形を保ってる。血は止まっていた。赤く染まっていた服からは血は崩れ落ちて汚れているだけ。服はわたしの一部だから、そのまま。 「――なんで?」 なんで森が砂漠になってしまったのかな。ああいや、わかってる。吸血鬼になってしまったときにどうすればいいのかわかってしまったみたいにわかってる。 これが、わたしの心の世界なんだと思う。すごく、居心地がよくて、寂しい。 足元の砂をすくい上げてみた。さらさらさらさらと指の隙間から零れ落ちていく。またすくい上げてみた。またこぼれた。またすくい上げてみた。またこぼれた。また――。 何度も何度も繰り返しても、どんどんどんどんこぼれていく。 「これが、わたしの世界?」 なんて救いがない。なんてどうしようもない。 悲しくなって手を握り締めた。 ざり、という音とざらざらさらさらした手触りに手のひらを開いてみた。 あった。まだ、あるじゃないか。ほとんどこぼれても、まだ残ってる。何も手に入らないわけじゃないんだ。そうだ、そういうことにしておこう。ここはわたしの世界だから、それでいいんだ。 「でも、足りないよ」 これっぽっちじゃいやだ。これじゃあ全然満足できない。足りない足りない。まだまだ、もっともっと欲しい。 ああ、そうか。だからなんだ。だからこんなに――。 「すごい――枯渇」 空を仰ぎ見る。今まで木々が邪魔で見えなかった空は、今度は真っ暗で星が瞬くだけだった。月がない闇夜。 目を凝らしても凝らしても――遠くに森が見えた。今のわたしの視力は格段に上がっている。多分さっきよりもずっと。昼より夜の方が見える。けど森は遠目にしか見えない。そうか、あそこが境界なんだ。そこまではずっと砂の世界。枯れるというプロセスを瞬時に通過してしまったから、砂しかない。 ふと、変化に気づいた。森がさっきよりよく見える。ううん、違う。あれは――。 「近づいて、きてるんだ」 木々は砂になりながらも確実に近づいてくる。でもわたしに近づけば近づくほど、枯渇はひどくなっていく。この世界の中心に向かえば向かうほど渇きは重く厚くなっていく。 俊足を誇る野獣よりも速いんじゃないかってぐらいの速度で進む森はついにわたしに届いた。枝が覆うように広がってわたしを包み込む。何本もの木々が幾重にも幾重にも捕縛と吸血の手を伸ばす。 でもそれも無駄。枯渇はわたしに近づけば近いほど無限に強くなっていく。だから、わたしに触れる前に絶対に砂になる。何も、わたしには触れられない。 少しだけ意識を世界に傾ける。 もっと、もっと、まだ、まだ、足りない……! 体が軽い。何かが邪魔しているのはわかるけど、今のわたしにはそれが問題じゃないほど力に溢れている。あの実を食べたからだ。それに森が枯れるとその木々が蓄えていたもの全部がわたしのモノになっていく。どんどんどんどん力が流れ込んでくる。それだけじゃない、森だけじゃない、そこらじゅうにある何もかもが枯れてわたしのモノになる。確かこれ、マナと呼ぶって教えてもらった。今まではこのアインナッシュが独占していたこの要素は、今はもうわたしのモノになった。わたしの方が、奪う力は上みたい。 わたしが意識を傾けたから世界は応えた。それも当然、これはわたしなんだから。渇きはもっと強くなって風化はもっと進行する。ほら、全部砂になった。 「……逃げてる」 また視線を遠くに投げたら、森は遠ざかっていた。わたしから、逃げてる。 「――驚いた。ちょっと期待し過ぎてたかなって思ってたけど、それも過小評価だったね。まさかこんなどうしようもない異界をこんな規模で展開するなんて、それも即席、土壇場で」 「誰っ!?」 突然聞こえてきた声に思わず声が上ずる。でもすぐに気づいた。この声はさっき、さっき――。 「ボク? ボクはメレム・ソロモン。第二十位って言った方が分かるかな。ちょっと荒っぽい手段だけど、こうしてキミも自分の本質に気づけてなにより」 「……言うことはそれだけ? どこ? どこにいるの?」 少し頭にきた。ちっとも悪びれた様子がない。今わたしがこうなってて、あの実を結局わたしに食べさせるためにしたことだと頭でわかってても、そもそもなんであんなことしたのかわからない。それって凄く気持ち悪い。 「あはは、今出ていったらボクでも少しまずいコトになりそうだから遠慮させてくれないかなあ? うん、ますます気にいった。アルトルージュ・ブリュンスタッドが入れ込むのも納得だね」 アルトルージュさんの名前が出てきてちょっと気が抜けたけど、すぐに周囲に気を配る。 「ありゃ、なんかマズいコト言った? ああそうそう、心配しなくてもしばらくしたらまた会うだろうから今は本題を済ませようよ。ほら、キミがここに来た目的を思い出してごらんよ。そう、アインナッシュさ」 身近な障害に気を取られていたせいか、そう言えば本来の目的を忘れていた。森が逃げてしまって枯れさせるモノがなくなってしまったせいか、世界を維持するのに少しだけ負担も感じてきてたので静かに男の子の声に耳を傾ける。 「――それでさ、キミ、アインナッシュの本体の位置分かってる?」 ……それを知ってたら迷ってないよ。 だんだんと森の支配力が強くなってきた。最初に発動の勢いで半径一キロぐらい砂漠にしてしまった後、男の子――メレムくんというらしい、にどこへ向かえばいいのか聞いて、それからそこに向けてまっすぐ走った。 始めのうちは世界に入った途端に砂になっていた木々も、本体が近くなるにつれて古い木が増えたせいか枯れるまでちょっとだけ時間がかかるようになってきた。けどそのおかげで中心に近いほどその傾向は強まるわけだから迷わずにすんだ。 世界はどんどん広がっていく。邪魔者からも力を奪って維持に充てればとっても効率がいい。とくに細かいことをしているわけじゃなくてすごく大雑把なことをしてる。でも大雑把だからこそ、敗れないものもあるってメレムくんは言ってた。 今は、うん、感覚的にしかわからないけどもう直径で五キロはあるのかな? こうやって森の中を走り回るだけでどんどん力を吸い上げられる。 でもだんだんと木々が砂になる前にわたしに攻撃してくることが増えてきた。結局わたしに近づけば枯れるだけなんだけど、それだけこの木々が古くて強力なんだろう。なにせこれを枯らして食べたモノは他のと比べても多い。おいしい。もう少しなんだろう。 本当に必死。悲しいまでに死に物狂い。なりふり構わず逃げていく。 みっともない? だらしがない? 見てられない? 情けない? 無様? 違う。全然かっこ悪くない。だって必死なんだから。誰だって死にたくなんかない。意識無意識で死にたくない。きっと今砂になっていってる木も死にたくなんかないんだろうね。この木に血を吸われて死んだ人も死にたくなかっただろうね。生きたいんだよね。ずっとずっと生きていたいんだよね。永遠にあり続けたいから、永遠に搾取する強い側に居続けたのがあなた達。 でもこれでそれもお終い。今度はあなた達の番。今度はわたしの番。 一本一本の木が太くなってきた。中心部まで、あと少し。 騎士は神父と祝杯を挙げた。 ちん、と硬質の音がして、中の液体が揺れ波打つ。それから赤いアルコールに口をつける。今年の新酒だ。実はまだ解禁されていないモノだが、彼女を祝福するのにヴィンテージなど安酒以下だろう。新しい存在を迎えるならば、最も新しいモノでもてなすのが嗜みの一つだ。 「見てごらんよ」 うっとりとフィナ=ヴラド・スヴェルテンはため息をつく。その視線の先にあるのは緑に満ちた黒い森だ。しかしその紅眼が見据える先はより遠く、腑海林だったものに注がれている。 まさかアルコールで酔いが回っているわけではなく。彼が酔っているのはこれほど離れたところでも肌がかさつくような存在意思そのものだ。 「なに、私は間近で見ることができましたしね。特等席でしたよ。まったくまったく興味深い。なるほど、“死ぬ”とはこういうことですか。幾度となく触れたのでしょう。直接の親が蛇だというのも無関係とは思えないほどです」 応えて神父は杯を傾ける。彼自身もまた決して酔うことはできないが、それでもその場の雰囲気というものはある。その傍らではカリーも無言でワインを啜っている。残された一人、侍女であるセンティフォリアも同席を許され、むっつりと押し黙りながら遠く、森の方を眺めつつやはり喉を潤していた。 「先ほど話した通り、かつてアインナッシュが滅ぶ原因となったのは大別すれば奴と同系統の魔術師だった。奴は自身の能力を上回る同種の能力の前に敗れたんだ。面白いと思わないかい? 今のこの状況、まさに当時の再生だよ。今のアインナッシュの能力はサツキの前では全くの児戯だろう。皮肉にも二代に渡って同じような滅び方をすることになるとはね。因果なものだよ」 苦笑をかみ殺しながら韜晦は続く。それが彼なりのアインナッシュへの弔いの言葉なのだろうと、カリーは赤い液体を飲みながら口の中で呟く。 言葉もなく、顔を上げて遠くに感覚を乗せてみる。ああ、そうか、これでは助かるまい。森が食いつぶされていく様が脳裏に浮かぶ、と同時に口元を歪め、どうしてか笑いが込み上げてくる。それでも声に出す失態は犯さず、一人嘲りと感嘆と賞賛と羨望の苦笑いを胸の内に呼び戻した。 「どうやら、そろそろのようですよ」 メレムが杯を卓の上に戻し、立ち上がる。そのまま身じろぎもせずに闇夜を見上げ、呟く。 呟きに合わせたようにフィナも杯の中の液体を一息に嚥下して、空になった杯を卓に戻す。カリーもセンティフォリアもただ静かに空を見上げる。 彼らは決して空を見たいわけでもない。今は無い月に想いを馳せているわけでもない。 ――肌で感じられるのだ。 「転換、しました」 そう、呟いた。 「これでアインナッシュに抵抗する術はない。もはや存在規模すら上回った。……いや、アインナッシュのそれを丸ごと奪ったか」 応える白。 「それでは――」 今一度祝福を。 新しき王が誕生する。 古き王が息去ぬ。 長らく埃が座していた位。教会では完全数を意味する位。真祖の姫の直系。 どこに不足があろうか。 今の今まで幻が預かっていたその席、正しきモノへと戻るのが道理。 フィナ=ヴラド・スヴェルテンは声もなく歓喜の声を上げる。 メレム・ソロモンは声もなく歓呼の声を上げる。 二人の従者は慎ましく息を詰める。 願わくは、 「――その道、磐石たらんことを――」 星々の薄明かりの下、祝福と再生を謳う。 見上げるような大木。直径にして十メートルはあるんじゃないかってぐらい、大きい。見上げてもどれだけ高いのかわからない。見えるのは星だけ。 数十メートルはあるだろう巨木のどこかに、わたしが探しているものがある。 下草は枯れてしまった。周りにある木はどれもこれも巨木ぞろいで、たくさん吸ってるのにまだ枯渇しない。それどころかまだ逃げようとしてる。それはもちろんこの森の核になってるこの一本の大木も同じ。 でももう無意味。だってわたしはもうあなたを見つけてしまった。だから、もう逃げられない。 メレムくんは大まかな方向を示して、それから少しだけわたしと一緒に声だけでついてきたけど、すぐに別れてしまった。なんでも彼には彼の用事があるらしい。 大丈夫。わたしはもう迷うこともないって言って、現に今ここにこうしている。もうアインナッシュの核をこの手に捕らえているようなもの。 決して逃がすことはないってわかってたから、ちょっとだけ後ろを振り返る。 生い茂る木々。大木の並木。その向こうには砂漠が――わたしが生み出した命耐えた世界が広がっている。枯れた庭、乾いた園。それが延々と続いている。歩きながら、ここを目指しながらわたしの世界は広がり続けた。始めは半径で数キロメートルぐらいだったけど、今なら半径で十キロ以上は十分いけるし、今もそうしている。 修正力といったものについては聞かされたこともある。わたしには関係のないことだと思ってたけど、そうかこれがわかってたから教えておいてくれたんだと思う。自分のことを自分以上に知る人がいるってことは、なんだか悔しくもあるし、とても安心もできる気がする。その人は、どうあってもわたしの理解者には違いがないのだから。 異界は世界にとって異物でしかない。だから世界はそれを元の姿に戻そうと圧力をかけてくる。今もそう、何かが大きなものがわたしの心象を否定してくる。それに抗う力がある限り、この世界は壊れない。魔術を使う、二次的な手段もあるって聞いたけど、その場合は修正力だけでなくて常に魔力というものも消費しないといけないらしい。だからほとんどの場合、魔術による固有結界というものはとても脆いのだそうだ。極稀に世界が一時的に間借りを許した時だけ、修正力――つまりペナルティはないとのこと。でもわたしにはこれはさすがに関係ないだろう。 結果として、わたしが枯渇させているのは森だけじゃなかった。わたしが侵しているのは世界そのもの。世界のかけてくる圧力すらも力の源。全部を奪うことはできないみたいだけど、負担はあっけないほど少ない。この程度なら一晩ぐらい楽に維持できそうだ。 でもそれは今は全く関係のないこと。 わたしはもう一度体を反対方向に向ける。そこには数々の大木に護られるようにそびえ立つ巨木。枝は悲鳴を上げるようにざわついて、葉は涙のように零れ落ちてくる。 「わたしが、怖い?」 誰もいないのに、誰も聞くわけないのにいつの間にか、言葉を漏らしていた。 どうしてだろう。今までまったく気にならなかったのに。この森がわたしから逃げていたのは確かなコト。何を今更。この森はわたしを怖れて逃げ惑った、それは間違いないのに。 ここに至るまで何度も何度もたくさんの木々を屠ってきたのに。 ここにこうして立つまで、たくさんの命を奪ってきたのに。 木だけじゃない。 わたしは、人殺しなのに。 どんなに幸せになっても、どんなに不幸になっても、どんなに罪を重ねても、どんなに罪を贖っても、どんなに泣いても、どんなに怒っても。 わたしは、人殺しなのに。 罪の意識を感じても、罰をどんなに望んでも、見返りをどんなに拒否しても、 罵倒や賞賛をどんなに受けても。 わたしは、人殺しなのに。 人を殺したのに、今までそれがどんなに重いのかわかっていたのに。 ――今、初めてわたしは――。 ふと、眠りから醒める。 紅い眼を緩慢に動かした後、再びあごを重ねた前足の上において夢を見る。 獣のそのような姿を見て、玉座――彼女がつけば、それが即ち玉座である――に腰を下ろしたまま、遠く星のみが輝く空を見上げる。その視線も遠く。天に煌く小さな欠片たちが一枚一枚の鏡となって彼女が幻視する情景を映し出しているようだと、黒い騎士は胸中呟く。 「そう、それが――」 満足そうに唇が見事な曲線を描く。さつきがその様を目にしたならば、過ぎたあの夜の事を思い出してさぞ戸惑うであろうな、と可笑しげにますます可憐に微笑む。 騎士と獣は物音一つ立てることなく、ただ静かにかしずくのみ。時すら止まったような静寂に、ただ一人変化を認めさせる気高さは紡ぐ。 「そなたの覚悟か」 それはとても満足そうで、永年彼女に仕えてきた騎士ですら、改めて吐息を漏らすほど雅やかだった。 小さく漏れ出た吐息が薄氷のような凍結を崩し去り、それに合わせたように艶やかな黒髪を纏う人影が一つ、現れる。 「それでは、行って参ります」 告げた影は侍従長、頷いた影は吸血姫。首肯したアルトルージュ・ブリュンスタッドに一礼し、彼女にもっとも古くから仕えてきた乳母であり侍従でもある死徒、エーデルガルト・エナ=アリアンロッドの影はたちまちの内に影すら残さず消え去った。 駆け上がる。幹につま先を突き入れ、枝と言う枝を足場にしてどんどんどんどん高みに登っていく。確実に、でも着実に高みへ昇り上がる。登って、昇って。 音はない。聞こえない。 それどころか色もないように感じる。何もかも白黒で無音。そのくせ時間は蜜のように粘り気がある。いや、蜜っていうよりも糊に近い。ただただ緩慢に時間も空気もわたしの周りをゆっくりと流れていく感じ。視線は上方。吸い込まれるように上を見つめて、どんどん少しずつ細くなっていく幹と遠近感が合わさって、まるで本当に吸い込まれていっているんじゃないかって錯覚すらさせる。でも本当は木はここから離れていってるわけでもないし、急に伸びているわけでもない。ただ単にわたしがその幹を駆け上っている。 抵抗も当たり前だけどある。この木だけじゃなくて、周りの木も寄り集まって何本も何本も、わたしの胴の二倍、三倍はある枝がわたし目がけて侵攻を阻もうと伸びてくる。あらゆる存在を貫き、締め潰し、引きちぎり、搾取する魔物の牙は、だけどわたしには届かない。 わたしに近づけば近づくほど枯渇は進む。だからわたしとの距離が無限小になれば、それには無限大の枯渇という避けられない結果があるだけ。 だからわたしには触れられない。わたしがわたしの一部と認識できていないと、そうでないものは全部何もかも異物なんだ。 足を突きいれた部分だけできるだけ吸わないようにして駆け上がっていく。その間何度も何度も妨害はあった。でも、わたしにただの物理干渉が届くことはない。 壁なんてない。そんなものは“在る”から“無”くなる。最初から隔たりなんてない。ただ到達点が永遠をかけても決して届かない地平線の彼方にあるだけ。だから“防ぐ”なんてことはしない。届かせないだけ。形を持った異物は決してわたしに触れられない。 なんて馬鹿げてる。こんなのが自分のココロだなんて。こんな拒絶と孤独だなんて。 ああ、そうかもしれないな。だってわたし、今まで誰とでもずっと距離を保ってきたもの。つき合いがいいとかそんなこと言われても、それはわたしが本当はどんな人間だったのか隠し通していただけ。ホントのホントに近くにいて欲しい人じゃないといつも絶対近づけない距離を作ってた。なら、この寂しい世界は間違いなくわたしのココロなんだろう。 「だぁれもいない。なぁんにもできない」 ああ本当に、悪い夢のようで、それでも見ないとわたしが壊れてしまいそうなユメ。直視して初めて出会う自分。それを知らずに生きていけるなら、とても幸せなのかもしれないし、悲劇なのかもしれない。喜劇だっていい。そんなことは些細なコトで、今わたしはわたしを再確認しただけ。つまらないトートロジーで偽りごと。こんな世界、わたしはずっと知っていた。それを満たす方法も知っていた。知っている。 だから、わたしは今もこうして生にしがみついている。死徒だから死んでるとかどうかなんて関係ない。わたしの意識はここにあって、わたしの体はここにあって、わたしの人格もここにあって、わたしの知性もここにある。何もかも、全部が全部そろっている。 太い枝が見えた。そこへ跳び移る。少しだけ体を屈めて、一気に跳躍する。何枚か鋭利な葉が足を斬り落とさんとばかりに舞い滑ってきたけど、それもわたしに触れる前に砂になる。ちょっとだけ視線を下に向ければわたしが踏んできたところはもう砂になってしまってなくなってる。 大きな木。 改めてそう思った。まだ登りきれない。木の中は四方八方に葉や枝、蔓が巡っててそれらが全部抵抗してくる。それはそうだろう。死にたくないもの。これは本能だけの生き物。なら死ぬことを選択することなんて絶対ない。最後の一欠片になってでも生き残ろうとするんだろう。迷いなんてどこにない。 でも今の弓塚さつきは飢えた獣だ。こんな上等な獲物がいるのに、それも大切な宝物を抱えているのに、見逃すわけがない。そうまるで御伽噺の竜みたい。 枯れて渇いた箱庭の園生と繁って瑞々しい血まみれの森。この二つは相容れない。この二つは互いに奪い合うもの。奪い合って、奪い合って、奪えば奪うほど奪った側は大きくなっていく。その奪う側がわたし。 当然なこと。野生の動物は自分が必要な分だけしか狩りをしない。だから森は森としてある。活動していない時は命溢れる森そのもの。理性がある、知性があるとそうではなくて、とても貪欲。根こそぎ刈り取る、根絶するまで狩りを止めない。だから森は森ではなくて、砂漠になるしかない。たったの一度の搾取、たった一度だけしかできない搾取。ただの一度のためにそれからの百度を握りつぶす強欲な性質。 アインナッシュは奪わない、でもわたしは何もかも奪い去る。それが、分かれ目。 アインナッシュの中心、腑海林の中心にあるアインナッシュのそのまた中心へと近づいていく。もう少しで目的の場所につくと思う。だってこんなに血の匂いが濃いんだもの。この匂いは知っている。わたしはこの匂いを香りを二度口の中で転がしたから。鼻にかかるあの匂いが体にあの苦痛とあの快楽を思い出させて震え上がる。でもこれはわたしのために取る実じゃない。ちょっと違うか、わたしが先に貰った分の実を返すためにも取ってこなくちゃいけない。アルトルージュさんは採れないのならそれでいい、って言ってたけど、つまりできれば採ってきて欲しいってコト。だからわたしは採らなくちゃいけない。 それに……これなら、採れるしね。 ちょっとだけ、頬を緩める。このままでも大丈夫だけど、撒いておいた種が実を結んだみたい。 あまり期待はしてなかったけど、今このアインナッシュ以外の木はここの近くのとりわけ古いものを残して全部わたしの味方になっていた。残りも時間の問題。 「こういうの、四面楚歌って言うよね」 なんとなくどうでもいい独り言をしてみる。この状況にわたしも結構ハイになってるみたい。それともあの実の匂いに酔ってるのかも。あの味を知ってるからこそ、かな。 匂いは薄れることなく濃くなっていくばかり。もう抵抗もまばら。抵抗がないんじゃなくて、それがまわりの木に邪魔されてわたしを煩わせないようにしてるだけ。 「そうだね、死にたくないもんね」 語りかける相手には何も期待してないのに、まるで同情するみたいにわたしは言う。 泣いているのかな。怒ってるのかな。とんでもない裏切りだもの。悲しいのかもしれない。それとも怖くて何も考えられないのかも。植物にそんなこと期待しても何にもならないけど、それを考えてあげることがせめてもの敬意。この木に、この木を生み出した吸血鬼に、そしてその吸血鬼を殺した人への。 もうすでに匂いがはちきれそうなほど濃い。葉の密度も薄くなってきた。がさっと腕で伸びた小さな枝を払うとそれは砂になって崩れ落ちた。そこから覗いたのは満天の星空、月のない星空、闇夜を照らす星空と……。 ――紅い赤い朱い血の水晶。 芳醇な毒の香り。お話でだけ聞く最初の人間が食べてしまった実。そう、次の段階へ進むコトを飛躍的に加速してしまう果実。蛇が差し出した明日への礎。 「蛇……」 わたしがここにこうしているのはひとえに蛇のせいだ。でも人間は自分達に知性を与えた蛇を憎んだのかな? そこのところはよく知らない。わたしは最初は憎かった。でも今はそうでもない。別に感謝しているわけじゃないけど、わたしの道の分岐の一つだと思えばそんなものだった、と感じるだけ。誰のせいとか、誰が原因だとか、誰に拠るとかつまらない。そんなもの、自分だけが識ってれば十分だもの。 ゆっくりと手を伸ばす。 そして、わたしはわたしの世界をわたしの心の中に、もう一度しまいこんだ。 とたんに体が軽くなる。楽だとは思ってたけど、あれはあれで結構わたしにとっても重圧になっていたみたい。でも疲労感はない。あの世界はわたしを常に最高の状態に維持できるから。 枯渇が止まると熱砂のような空気はなくなり、秋の肌寒い風が――結構高い所にいるから風を肌で感じられる――頬をなでて去っていく。そこらじゅうに充満する甘い実の香りを胸いっぱいに吸い込んで、わたしは目的のものに手を伸ばした。 指がひんやりとした皮に触れる。その感触、手触りを楽しむコトもせずに無造作にもぎ取った。 あっけなく。 アインナッシュは吠えない。わたしを止めるコトはできない。ただ黙って奪われるだけ。どうせこれはあまりもの。そんなに大切なものじゃないだろうけど、それでもわたしは奪い取った。 枯れることも渇くこともなくなって、森はかつての静けさを取り戻した。でも決定的に違うコト。もうこの森の王はアインナッシュじゃなくなった。アインナッシュの周りの全ての木は今はもうわたしの血族。すごくかわいそう。八百年間ずっと一緒にいたのに、皆が皆あなたを裏切ってしまいました。あなたの側にはだぁれもいない。あなたはもうなぁんにもできない。 すごく、かわいそう。今までの全てが覆る絶望、あなたは感じることができるの? 価値観が崩れて構築される、新しい世界に呑み込まれるときの戸惑い、あなたにはわかる? つまらないよね、そんなこと。 だって、わたしは今もこうして在るんだから。 「聞こえてる? アインナッシュ?」 わたしという脅威に何もできないで、ただあるだけの老木に囁く。 「わたしね、まだ止まれない」 「わたしね、まだ終われない」 実をポシェットに――来る時に実を入れていた場所に、新しい実を放り込んでから大きく張り出した枝の上に立ち上がる。 「あなたはどうなの?」 太い、とても太い幹に向かってバランスを取りながら歩いていく。 「まだ、止まれない?」 「まだ、終われない?」 返答が返ってくるはずもない。だからそんなことはどうでもよかった。 「うん、そうだね、あなたはまだ在りたい」 きっと、そうなんだろう。これだけ近くにいると、なんとなく分かる。 幹のすぐ側に立って、そっと、むき出しの手のひらで外皮に触れる。ごつごつとして硬い。赤く脈動する魔物の光が私の顔を、手を暗闇の中に浮き出させている。 「……」 時間が止まったような静寂。もうアインナッシュに仲間はいない。もうこの森ではアインナッシュは群体としての意味をなくしてしまった。森は森という群体のまま、アインナッシュだけが外されてしまったから。 わたしはこのかわいそうな木がほんとうに心からかわいそうだと思った。孤独だろうから。 でもそれに応える理由が、今のわたしにはない。 さっきも考えたこと。野生の獣は自分が必要なものしか狩りをしない。わたしは、人を殺してきた。殺した。潰した奪った晒した。それでも、それでもそれはわたしの本能。吸血鬼の業っていうもの。それが必要だったから、わたしは人を殺した。それは間違いなく人間では罪。いいや、殺害は悪いこと。人間であるなしは関係ない。だから生き物は皆悪いことをする。自分が生きていくためにたくさんの命に悪いことをする。 でもそれは、獣。そんなことは獣しかしない。そう、血が必要だからってだけで血を馬鹿みたいに欲しがる吸血鬼なんて獣もいいところ。だから、わたしは獣だった。 じゃあ今は。今はどうなんだろう。 ああもう、そんなの決まってるじゃないの。わたしの前にはこんな極上の獲物がある。わたしにこれを手に入れる絶対の理由なんてない。ただ便利だから、なくてもいいけど、あったら便利そうだから。ただそれだけの理由。生きるためじゃない搾取。自分の付加利益のために命を傷付ける。 ああ、なんて人間的なんだろう。 今のわたしは獣。 だから、今はまだ獣だから。今ここで。 「そう、これは殺し合い。わたしはあなたの抱えている宝物が欲しい」 「そう、これは奪い合い。わたしはあなたの守る全てが欲しい」 「そう、これは潰し合い。わたしはあなたの理由を切って捨てる」 わたしはあなたをわたしのどうしようもない利己的な理由で奪いつくす。 そうしてわたしは人になる。 だから――。 眼を閉じる。そこに拡がるのはカラカラに乾いた世界。わたしだけの枯渇庭園。 今ここで――。 「ころ 」 潜っていくイメージ。深く、深く、深く、深く。 「して 」 手が届いた。一度出した物を引っ張り出すのは造作もないこと。 「あげ 」 次は解きほぐそう。ほら、簡単に開ける。一度開いてしまえばこの程度は簡単。 「る 」 もう一度、わたしの世界で世界を侵す。枯渇はほんの一瞬でわたしの知覚を越える範囲まで広がって、次にまばたきしたときにはもうアインナッシュは砂になってしまっていた。それだけじゃない、この枯渇に飲みこまれたのはアインナッシュだけじゃない。今わたしは足場をなくして地面に向けて落ちていってる真っ最中。でもほら、あたりを見回してみるとそこにはもう何もない。わたしに従っていた木も、もうわたしにはいらないから簡単に砂になる。ああ、ああ、これはすごい。実を食べた時とは比べ物にならない恍惚。それも当然なんだってすぐ気づいた。そうか、わたし、アインナッシュそのものを食べちゃったんだっけ。――違う。わたしはアインナッシュを食べるために食べたんじゃない。わたしはわたしの余分な身勝手で命を奪った。これがわたしにとって初めての殺害。うん、もう忘れない。弓塚さつきは生まれて初めて、自分の意思だけで殺しました。 そう、わたしは自分の意思だけで直径五十キロある森を殺し潰しました――。 そうか、とそこで気がつく。この世界って、今ちょうど半径二十五キロあるんだ。別に、だからどうってことはないけど。いきなりわたしができるぐらいだからこの程度珍しくはないんだろう。 そこまで考えたところで地表が近くなってきたから、体勢を整えて危なげなく着地する。味気ない世界から解放されたけど、今度は一面砂の海でこれはこれで淡白な景観だ。さっきまでは森が明かりになってたから足元はよく見えていたけど、今はそれもないし月もない。小さな星たちが儚げに輝くだけで本当は真っ暗なんだろう。幸いなのかどうか、今のわたしの目は結構問題なく周りを見通せている。 空を見上げながら異界を胸の奥に折りたたむ。すると世界の雰囲気も変わった。ただ一面の砂漠があることは変わらないけど、何かが変わった。 一度軽くつま先で地面を叩いたあと、このままここで立ち尽くしていても意味がないと思って、あてずっぽうだけど皆が待っている場所まで行ってみよう、と砂を踏み締め歩きだした。 「固有結界の発動からほぼ一時間、優秀だね」 フィナは時計を懐に収めながら言う。その表情は僅かながらの驚きと、大部分を占める、そうでなくては困るといった当然を受け入れる顔でもあった。 「それでは私達は失礼させて頂きますよ。カリー?」 メレムはカリーを促して立ち上がる。 「では、いずれ」 「ああ、いずれ。再会まで、そうはかからないだろうけどね」 「ふむ、ならばその日その時までと言っておきましょう」 そう言い残し、二つの人影が木立の中にまぎれていった。 それと入れ違いになるように二つの人影が現れる。 一人は黒髪の少年、もう一人はこれも艶やかな黒髪の女性。 「おや? 途中で合流でもしたのかい?」 問かけるフィナに応えるように少年は頷く。 「先ほどそちらで、マスター、確認作業終了しました。全て砂漠と化しています。また脱出者は一名、協会の魔術師のみです」 「ご苦労、レナートゥス。君は彼女達と事後処理に当たってくれ。僕は次の仕事に取り掛かるとするよ」 グラスの中の赤い液体を飲み干し、立ち上がりながら言う。 「それにしても、ああ、じゃあ引継ぎは完了した。君に任せておけば問題はあるわけないか、頼んだよエーデルガルト」 「貴方の方も、つまらない興になど乗らないでくださいね」 「ものによるさ」 最後にそう告げて、白い騎士の姿も霞みと消えた。 彼女、エーデルガルトはずっとその場にたたずんでいたセンティフォリアと先ほど合流したレナートゥスに向き直る。 「レナートゥス、案内を」 「それでは」 と少年は軽やかに身を翻し、それに続いて二人の侍女もまた風となり砂の中へと身を躍らせた。 しばらく歩いていると遠目にも誰かがいることが分かるほどはっきりとした人影が見えてきた。あれは――。 「あれ?」 フィナさんがいないのは、まあ分かる。センティフォリアさんが来てくれるのも、分かる。でもなんでエーデルガルトさんとレナートゥスくんがいるのだろう? あとから来たんだろうか? まあそれも些細な事。向こうもわたしに気づいたみたいで、まっすぐこっちに走ってくる。わたしはなんとなく立ち止まって、彼らかがわたしのところに来てくれるまで空を見上げて待っていることにした。たくさん働いたんだからこれぐらいは許してもらおう。 満天の星空。でも月はない。ただただ小さな儚い、ささやかな星の光だけが空の全てを支配している。だから満月に比べるととても暗い。何もかもが隠されて、何もかもが息を潜める。いつも地上を監視する月が空にないから、誰にも見咎められずにやりたい放題好き放題し放題。 それでも星は見ている。何が起こったのか、何が消えたのか。大地は憶えている、どうして起こったのか、どうやって終わったのか。だから結局は隠し通せない。あ、これじゃあカンニングした学生みたい。なんだかそれは少しおかしな例え話だ。 秋の風が身を切るように冷たい。平気なはずなんだけど、どこかがとても痛い。でもこの痛みは慣れなくちゃいけない痛みなんだって、なんとなく分かる。それだけなんだけど、それがこれからのわたしに必要になるもの。 満天の闇。地に落ちる光はない。それでも顔を上げてみればわたしを待ってくれている人がいる。わたしが帰る場所を護ってくれている人がいる。それが、とても嬉しい。 ああ、本当に真っ暗。月のない闇夜だけど、それでも視えるものはある。皆が少し離れた場所でわたしが歩きだすのを待っている。それははっきりと視える。だからわたしはまた一歩、踏み出した。 月のない夜。闇だけの夜。 今宵は、闇月夜。 闇だらけの夜だけど、それでも明るい宵の明。 明るい、明るい、闇月夜。 |