闇月夜 0/朧 |
少年は気づかなかった。 少女は知らなかった。 ゆえに、この間違いは起こることとなった。 「――志貴、くん?」 とん、という軽い音がした。体のなかを伝わってきたその音は、軽くて、あっけなくて、なんでもない、ただそれだけの音だった。 あくまで、その音は。 重力に視線が引きずり下げられる。なにが生み出した重力なのか、そんなものは知らない。ただ、それは重力なのではなく、ただ単に同じ方向に働いた引力なのだと思う。 でも、わたしは途中でそれをやめた。なにが起こったのか、そんなことわかりきっていたのだから。心の奥底で、それを望んでいたことは自分が一番よく知っている。だから…… 「――ごめん。俺は、弓塚を助けられない」 違うよ、志貴くんはわたしを助けてくれたんだよ。 ほんとうだよ、わたしは助けてもらえたんだ。もう、苦しまなくてよくなるんだから。 「そっか――やっぱり一緒には行ってくれないんだね、遠野くん」 だから、もう“志貴くん”って呼べない。それに――うん、わかってた、遠野くんはほんとうにこういうことに鋭いもんね。だから、たぶん無意識にわたしがほんとうにして欲しいことがわかったんだ。 きっと……そうだよ。 「でも、うれしかったよ。ほんの少しの間だったけど、遠野くんは、わたしを選んでくれたんだもん。……うん、これならこのまま死んじゃっても悪くないかな」 ……だから、そんな顔しなくていいんだよ。 「ね? 最後のお願い、きいてくれるかな?」 最後のわがまま。約束を盾にして、遠野くんを困らせてしまったわたしには許されないことば。 「――ああ、言ってくれ」 「こんな体になったときにね、わかったの。わたしの――末路、かな。 自分がどんなふうになくなっていくのかも、一緒にわかったの」 「――うん」 「だから……」 のどが詰まる、言いたいことがたくさんありすぎて、話したいことがたくさんありすぎて、伝えたいことがたくさんありすぎて、わたしがなくなるまで、その最後のときまで。 だけど、それは……唯一つだけ。 「わたし、あんなふうになっていくのを見られたくない。遠野くんに見られたくない。誰にも、見られたくない。……だから、ここでお別れしたい。今、わたしが、わたしであるうちに、ちゃんとお別れしたい」 そう言って、わたしはふらりと立ち上がる。体が軽い、今までずっと思い荷物を背負っていたみたいに、軽い。その軽さがなんなのか、よくわからない。だけど、軽くなったことは確かなんだ。 ぽたり、と雫が落ちる。 「――じゃあね……ありがとう。そして、ごめんね」 一歩、後ろにさがる。また一歩、一歩、一歩……。 「ああ――じゃあな……。また――会えるから、その時まで……」 馬鹿だね、遠野くん。もう、“また”はないんだ。最後の別れの言葉じゃないよ、それ。 少しずつ、遠野くんの体が闇に飲まれていく。わたしの体が死に飲まれていく。少しずつ、少しずつ……。 もう、遠野くんからわたしは見えないだろう。でも、わたしの目は、吸血鬼の目はかすれていてもまだ遠野くんの顔が見える。虚ろな顔、それなのに感情があふれ出て、こぼれ落ちそうな顔。今にも崩れてしまいそうで、脆い。 だめだよ、そんな顔でお別れしちゃ。こういうときにはね、どんなにつらくても、かなしくても笑ってあげないといけないんだよ。 だから、ほら、わたしだって、ほら、こんなに、こんなに……。 ――笑って、いるんだよ。 頬が濡れても、笑って、いられるんだよ。 左手の指がもう動かない。もう、わたしからも遠野くんは見えない。 灰になっていく。わかっていたけど、あまり気持ちのいいものじゃないな。 「う……」 壁に寄りかかる。その衝撃で崩れかけた左腕がぼろり、と落ちて灰になってそこにつもる。 まだ、まだ、遠くに行かないと。 ――もっと ――――もっと、遠くに……。 誰も見てないところで、わたしはいなくならなくちゃいけない。もう、いない人間なんだから。誰かの目の前でいなくなるなんてことは、できないから。 ――遠くに ――――ずっと、遠くに……。 「――あ」 弓塚の姿が、まるで蜃気楼のように消えていった。 俺が、殺した。 彼女を欺き、その胸の線に、ナイフを突きたてた。 俺は、彼女を、謀り殺した。 自分が死にたくないから、彼女を救いたかったのに、自分が死にたくなかったから、殺した。 なんて――卑劣。 俺を罵ることもせず、彼女はただ……“ありがとう”とだけ告げて消えてしまった。それは、どんな罵倒の言葉よりも重くて、押しつぶされそうになる。 しびれて俺のものではなくなったような体が、糸に引きずられるかのように持ちあがり、歩き出す。 まるで紙細工のような体をずるずると引きずり、路地裏から去ろうとする。 ――俺は、どこに向かっている? 屋敷に、戻らなくては。 ――なら、俺は今、どこを向いている? 決まっている、俺の家だ。 ――本当に? ああ、本当さ。 ――よく見てみろ、俺がどこに行こうとしているのか。 気がつくと、俺は路地のさらに奥に分け入っていた。そしてそこで、見つけてしまった。 狭い路地裏をかき分けるように流れ、駆けていく風にその痕跡を少しずつ削られ、まるで元からなかったかのように消えていく一掴みの灰を。 それに歩み寄って、すくい上げたい衝動に駆られる。そうすれば、まだ彼女がそこにすがれるような気がして。それには何の意味もない、何も、成さない。それが解っているから、知っているから、それを視界から振り払う。 夜はウツロ。まるで、壊れた穴に空いた孔のように見える世界。 そんな、無様。 何かを考えることができるのだろうか。いや、わき上がるのは問いかけだけ、どこにもあてのない疑問。だから、それはどことも知れない何処かに流れていく。 心と体が乖離して、心を残して、体だけが帰ろうとする。 だから……、心も帰らざるをえない。重い足取りで、空っぽの体を引きずって、帰途についた。 少年は気づかなかった。 少女の体が、わずかに揺らめいていたことを。 少女は知らなかった。 少年の刃は、少しのズレで、意味を失うということを。 ゆえに、この錯誤は、生まれた。 |