闇月夜     1/仰瞰の夜 T








「うそつき――!」

 ……夢?

「助けてくれるって、わたしがピンチの時は助けてくれるって言ったのに!」

 あ、これ、夢……だ。
 うん、確かにこれは夢だ。憶えてるから、このときのことは何度も夢にみてきたから。だから、これは夢。終わったこと、もう変わらないこと、記憶の中だけに存在して、ずっと再生されていくだけの記録。
 また、この夢……、もういい加減、見飽きたな……、三日に一回ぐらい夢をみて、3回のうち2回はこの夢。もう、数える気もしないぐらいこの夢をみた。十回を超えたぐらいで数えるのは止めた。だって、意味がないから。わたし以外に、わたしを――そう、観測する人がいないから。

「……こんなに痛いのに、こんなに苦しいのに、どうして志貴くんはわたしを助けてくれないの!?」

 あ、まだそんなこと言ってるんだ。ほんとうはわかってたんでしょう? ねえ、わたし。
 わかっていたから、わからないように自分に言い聞かせなくちゃいけなかったんだよね? そうしないと、わたしはもう、そこにはいられないから……。

「志貴くん――志貴くんがわたしの傍にいてくれるなら、この痛みにだって耐えていけるのに」

 うそつきは、わたし。自分を騙すだけの、へたなうそ。でも結局、誰も騙し通せなかった穴だらけの、うそ。わたしも、彼も。

 ……だから、うれしかった。
 わたしのうそを受け入れて、わたしのわがままをきいてくれたことが。

 ……でも、くやしかった。
 わたしのうそを押し通して、わたしのわがままをきいてもらったことが。

 ……そして、しあわせだった。
 わたしのうそを正して、わたしのほんとうのわがままに応えてくれたことが。

 あのとき、わたしは――
 死にぞこなったわたしを――
 ――殺して、欲しかった……。




 夢は覚めるもの。重いまぶたを苦労してこじ開ける。ほんとうにタイヘン。目を開けるだけのことがこんなに苦痛。こんなこと知らなかった。ただ、目を開けて、起き上がることがこんなにもすごいことだなんて。
 そう、一年前まで。
 ここは暗くて、狭くて、細くて、ほこりっぽいトコロ。誰も寄り付かないような場所。街のなかで、ぽっかりとあいた空洞。
 路地裏。
 わたしは今、その宵闇に隠れている、そこにいる。
 頭に浮かび上がってくることは毎日、おんなじ。
 わたしは、一体なにをやってるんだろう、って。

 間違っている、わたしがまだ、あるなんて。もうとっくになくなっているはずなのに、おかしい。わたし、まだ這いずってでも未練があるのかな。すごく、かっこわるい……。
 あれから寒くなって、暖かくなって、また寒くなってきて……。
 もう、秋なのかな。動かない頬が笑おうとして、失敗する。一年も、わたし何をしているんだろう? もう、いい加減体も動かなくなってきた。今までもっていたことが奇跡だったんだ。ここにきて、そろそろ一週間ぐらい。ここで、終わるのかな。せっかく、左手がなくなってもバランスをとれるようになったのに。
 ううん、これでいい……。
 この薄汚れて、よどんだアスファルトのにおいがするここが、わたしにお似合い。
 何度、帰ろうと思ったかな。……帰るところなんてないのに。わたしはどこに帰ることができるんだろう? ……ああ、そんなことはどうでもいいんだ、わたしはただ、ちゃんと殺して欲しいだけなんだから。
 ここに来るまで一年ぐらい、多分、帰るのには2年ぐらいかかるかな。その前にわたしがなくなるのかな。――どっちでも、いいや。
 でも、帰らない。帰ったら、わたしはこのぼろぼろの体で会いに行ってしまう、そして、殺して、と言ってしまう。わたしだけでは死にきれなかったから、やっぱりその手で殺してって言いに行っちゃう。
 それってすごく残酷で、いい加減。彼の中ではもう、わたしは死んでいるはずだから。また、わたしを殺させることになるから。
 誰よりも優しい殺人鬼だから、それでもわたしを殺してくれるかもしれない。でもそれはヒドイこと、とてもとても、ムゴイこと。だからわたしはここで朽ち果てるまで待って、それでもダメならまた這いずって、また待って。いつか目が覚めないことを願うだけ。

 意識が、また遠ざかっていく。この瞬間が恐い。ここで眠って、そして目が覚めるのが恐い。ドラマとかだと、“もう、目が覚めないかもしれない”ことが恐いとかいってるけど、そんなのなんてことない。眠って、もう何もかもから解放されるのに、またこの現実に引き戻されることが恐い。目が覚めるときが一番恐い。恐い、すごく、恐い。まだ、自分がすがりついてることがわかって、恐い。

 ――でも、意識をつなぎ止めておくのも、もう限界。

 今度こそ、ほんとうに眠れるといいな……。




「――――――――――――」
「――――――――」
「――――――――――」
 声。
 話し声。
 誰かが話している声がする。

 いけない、
 これじゃ、だめだ。
 誰もいないところじゃないと意味がないから。
 ――行かないと……。
 ここを――離れないと……。
 でも、わたしの体は、動かなかった。

 どうして、震える右手を伸ばして、地面に爪をかける。
 それでも、動かない。
 ……違和感。
 腕で引いても、引き戻されてる感じ。おかしいと思って腕から力を抜く。
 そうしたら、ずるずるって引き戻された。
「――――――」
 耳はもうおかしくなってたみたい。もう、ずっと言葉なんて聞いてないから気づかなかった。
「――――」
 笑い声?
「――――――――――」
 うん、笑い声だ。でも、なんか嫌な感じ。
「――――」
 ふっ、と体が持ち上がる。……持ち上げられたみたい、まだ何か話してる。離してくれないかな、襟首を掴むのって失礼だと思う。
「――――ぜ」
「―――――――どよ」
「――――んなよ?」
「―――ちゃいるがよ」
 少しずつ耳が慣れてきたみたい。ふうん、まだ生きてたんだ。
「……下ろして、くれないかな」
 まだ、声も出せたんだ。残念、もう喉は死んだかと思ったのに。
「あん?」
「……地面に……下ろして欲しいんだけど」
「おらよ」
 投げ捨てられた。ひどいなあ。

 開かないまぶたを何とか開けて、見上げてみる。いかにも遊んでるって感じの男の子たちが、三人。
 仰向けになったから、星が見える。今夜は、月はないみたい。新月の夜。星だけの世界。……きれい、このまま浮かび上がってそこに届いてしまいそう。行きそこなったそこに、今すぐにでも行ってしまえそう。
 でも、お腹に衝撃を受けて体が転がってしまったから、星が見えなくなった。
 足、6本見える、足。ああ、わたし蹴られたんだ。そのまま、今度は顔。あとは……どこかわからない。とにかく、あっちこっちを蹴られてる。痛くないから、わからない。
 笑ってる、抵抗もしないでただ蹴られるだけ、そんなわたしが面白いのかな。
 胸襟を掴まれて、引き上げられて、今度は殴られた。
 目的のない力。ただ、それを振るうだけ。だから、わたしはたくさんの人を傷つけてしまった。ただ、突然手に入った力を振り回して。
 広がる血の味。口の中、切れたんだ。でもすぐに傷は塞がってしまう。
 じわりと血の味が広がって……わたしは、吐いた。
「う……、げぇっ、げっ、うえっ」
 血の味は、イヤだ。わたしには必要なもの、なによりも必要なはずのもの。だけどあの日以来、二度と口にしない、もう二度と口にしたくない。その味に充足感はない、言いようのない嘔吐感だけ。血が嫌いな吸血鬼なんてヘン、きっと世界にわたしだけだ。そういえばわたし以外の吸血鬼には会ったことがないなあ。わたしがなったんだから、わたしを吸血気にした吸血鬼がいるはずなのに。
 たぶん吸血鬼殺人の犯人がそうなんだろう。わたしは支配されるはずだったけど、されなかった。わたしみたいに半人前の吸血鬼が生まれたことなんて知らなかったんだろうな。

 そのまま、のしかかられた。
 服に手がかかる。かわいい制服なんだけどもう随分と汚れてしまった。最初のうちはなんとなく上着だけでも洗ったりしてみたけど、もうそんな元気もないから着たきり。
 右手がそれを止めさせようと動いて男の子の腕を掴む。するともう片方の手で殴られた。他の二人にわき腹を左右から蹴られた。

 止めて欲しいな。

 蹴られた衝撃でもともと力のこもっていなかった右手は振り払われてしまった。また、殴られた。なんどもなんども殴られた。
 また、服に手をかけられた。イヤだな、止めてよ。
 ぼろぼろの上着はすぐに破れた。
 首に手をかけられた。そのまま絞めてくる。息が、できない。目が、かすんでくる。
 なにも、考えられなくなる。

 また笑ってる。そんなにおかしい? なにも抵抗できないわたしが、そんなにおかしい? だからそんなに嘲笑うの? 無抵抗で、弱い、ただ搾取されるだけの存在がおかしいの?

 でも、あなたたちだって……。
 あなたたちは……。
 あなたたちなんて……。




 ――――――ただの、血袋に過ぎないくせに――――――




 ぼきり。

 重く、不快な音がして、わたしにのしかかっていた男の子の首が手折られる。あっけなく、まるで小枝を折るように。
 笛ようなオトを喉からもらして小刻みに痙攣する。
「――あ」
 どさりと今にも死にそうなモノが路地に横たわる。わたしが、殺した。首の骨が折れたのなら、もうすぐにでも止まってしまう。吸血鬼が血を吸うために人間を殺すのは当たり前のこと、人間が動物を殺して食べるのと同じ。でもそれを食べなかったらそれはすごくいけないこと。ただイタズラに、命を奪うだけ。

 殺して、しまった。
 また、殺してしまった。
 意味もなく、悪いコト。

 動かない体を無理やり動かそうとしたけど、やっぱりもう動かない。さっきのが最後の機会だったみたい。だからせめて首だけでも回して、目を動かして、残りの二人を見る。
 わたしの目は、今や赤く炯々と輝いているんだろう。ぼろぼろの姿で、身動きもとれずに仰向けになって夜空を眺めるだけのわたしは、その赤い瞳で二人をとらえる。そこに何か異質なものを感じたんだと思う。彼らはもう動かなくなったもう一人を捨てて逃げ出した。その顔にははっきりと恐怖。本能的な原始の恐怖。喰べるものと喰べられるものの決定的な差を見せつけられた上での必死の逃走。
 それを追いかける力なんて、わたしにはない。

 わたし、退治されるのかな。人を殺す、悪い吸血鬼だから。
 それはダメ。わたしを殺したのは彼、だから誰にも殺されてあげない。

 じゃあ、どうすれば?

 それは簡単、ここにある死体から血を吸えばいいだけ。手ごろな位置にせっかく新鮮な死体があるんだから。食べないのに殺しちゃいけない、ならこの死体から血を吸えば悪いことじゃなくなる。
 でも、わたしは血を吸えない吸血鬼。
 ああ、結局なにもできないまま退治されるのを待つだけなのかな。どうせ血を吸ったらまた苦しいことになるだけなんだから。吸ったら、回復してしまうから。

 星がまたたく。
 空を仰ぎ見る。仰ぎ瞰る世界。そこはとても遠くて、広くて、確かな地面があって成立する感覚。浮かび上がっていきたい、そう感じさせるモノ。

 ――それが、あの人のことを思い出させた。

「――――な」
「―――いな」
 ……黙って、これ以上言わないで。
「――たいな」
 うるさいなあ、黙ってよ。わたしはそんなこと少しも思ってないんだから。
「―いたいな」
 ――うるさい。
「あいたい……な」
 ――うるさい、うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!
「会いたいな」
 うるさい!
 もう黙ってよ! そんなこと言わないでよ!
 そんなことできないんだから、できるはずがないんだから!
 だから、黙ってよ……。
「会いたいよ……」