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闇月夜     2/仰瞰の夜 U







 風が吹いた。
 気温は低い。だけど生暖かい風。わたしはその風に運ばれてきたにおいに、胃が絞めつけられた。
 血。甘くて、どろりとして、苦くて、ねとねとして、広がって、滴り落ちて、吐き気のする命の雫。
 ――――――――ピチャン……。
 ――――――ピチャン……。
 近づいてくる、何かが滴り落ちる音。
 ――――ピチャン……。
 ――ピチャン……。
 むせかえる程濃いそのにおい。
 ピチャッ
 血のニオイ。

 そこに、吸血鬼がいた。
 真っ黒、という表現がぴったりくる黒い影。よくわからないけれど、着ているのは喪服みたいな黒のスーツだ。視界が昏くて、首から上は見えないけれどわかる。吸血鬼、わたしと同じ吸血鬼がそこに立っている。わきに二つの何かを抱えてわたしを見下ろしている。
 血を滴らせている、二つの何か。それは……。
 仲間を捨てて、逃げ出した二人の成れの果てだった。
 どさり、と音がしてその二人の死体がわたしのそばに投げ捨てられる。どうしろというのだろう? 彼らの首筋からはそれぞれ二筋の流血の跡、血を吸われた跡。それを見たわたしの喉が、ごくりと鳴る。
 ホシイ、血がホシイ。甘くとろけるような血がホシイ。そこに牙を突き立てて、血を吸い上げて喉を潤して胃に収めたい。ずっと、ずっと血を摂取していないこの体でそれを成したときの快感はどれほどのものだろう、どれくらいの衝撃が走るのだろう。口の中にはじけるその味を思い浮かべて、わたしはまたえずいた。内臓という内蔵がひっくり返るような感覚が喉を通って外に吐き出される。でも、そこからは何も出てこない、何も入っていないから。だからわたしは夜空を仰ぎ瞰たままお腹と喉を痙攣させる。
「嫌血、いや……拒血か」
 低い声、また音が聞こえなくなってきた耳がどういうわけかしっかりとその声を捕まえる。落ち着いた声、どこかで聞いたことがある感じの声、静かで、思わず背筋を正してしまいそうな声。
「ならば仕方あるまい。目撃者も、被害者もいてはならない」
 足音が近づいてくる。わたしのすぐ近くに来て二つの死体を持ち上げて、それからその血を吸いつくした。すごく速い、わたしみたいに中途半端な未熟者と違って、すごいスピードで飲み干してしまった。
 からからに渇いてしまったそれを投げ捨てた。それは地面につくとさらさらと粉になって消えていった。そのままあとの二つの死体も同じように吸い尽くされてなくなった。
「一つ、確かめる。お前はお前の意志でこれを拒んでいるのか、それとも、拒まざるを得ないのか」
 そんなこと言われても飲めないものは飲めないし、飲めてももう飲む気はない。
 でも聞いてくれているのなら、この人がわたしに吸血鬼として聞いてくれているのなら答えないと。
 もう喉を震わせる元気もないから、動くのは唇だけ。唇だけを少しだけ動かして答える。
 ――飲みたくない――
「滅びるか」
 ――それでいい――
「それは、真実お前の願望か?」
 ――そう、それに、飲めない――
 わたしの口の動きを正確に読んで答えてくれる。なんだか、少しうれしいな。
 でも、困ったな。これじゃあ、ひとりでいなくなれないや。
 ――ひとりに、して――
「死を求めるか」
 ――違う、もう殺された――
「成したいことはもう無いか?」
 ――なにも――
「……ならば、なぜお前のその手は空を掴む?」
 腕?
 わたしの、腕。
 なにもないそこに伸ばされている。
 どこに?
 わからない。ただそこに差し向けられた腕と、何かをつかもうとしている手があるだけ。
「欲すれば手に入る、己すら欺けぬ虚言など喜劇にすらならん」
 ――う……そ……? ――
 わたしはうそつき。たくさんたくさんうそをついてきた。みんなに合わせてきた。
 ――じゃあ、なにを? ――
「知らぬ。それはお前以外知ぬものだ」
 ――わたし……が? ――
 わたしが望んでいるもの、求めているもの、掴もうとしているもの。
 ――だめ、考えちゃいけない。それは思い出しちゃいけないもの、耐えていくには邪魔になるもの、いらないもの。
 せっかく忘れていたのに、せっかく押し込めてきたのに!
 少しでも意識に上ってきてしまったときが最後、もう止まらなくなるってわかっていたから。
 そして、そのときがきてしまったから、思い出させられたから。
 ひどいよ。
 カラが破れていく。もう、枯れ果てたと思ってたものがどんどんあふれ出してくる。
「渇き、餓えることがお前の贖罪か? それでもまだ足りないのか?」
 もう疲れたよ、もう十分。――早く、死にたいな。
 わたしは早く死にたい。死にたい、死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい!
 だからそんなの関係ない。関係なんだから。
 関係、ないんだから。
「逝くか、生くか、決めろ」
 決まっている、わたしは――
 わたしは――――イキタイ?
 逝きたい? ホントウに?
 生きたい? どうして?
 行きたい? どこに?
 イキタイ……。

 イキタイ生きたい生きたい逝きたい行きたい逝きたいイキタイ生きたい行きたい生きたいイキタイ生きたい行きたい逝きたい生きたいイキタイ行きたい生きたい生きたい逝きたいイキタイ行きたい生きたい生きたいイキタイ生きたい行きたい逝きたいイキタイ生きたい行きたい逝きたい生きたい行きたい生きたい生きたい行きたい逝きたいイキタイ生きたい生きたいイキタイ行きたい生きたい行きたい生きたい逝きたい生きたい生きたい行きたい逝きたい生きたい行きたい逝きたい生きたい逝きたい生きたい生きたい行きたい生きたい生きたいイキタイ生きたい行きたいイキタイ生きたい行きたい生きたい生きたいイキタイ生きたい行きたいイキタイ生きたい生きたい!

 まだ伝えたいことがある、まだ話したいことがある、まだ伝えたいことがある、まだ知りたいことがある、まだ見たいことがある、まだ聞きたいことがある、まだ触りたいものがある、まだ触れたいものがある、まだ歩きたいところもある、まだ会いたい人もいる、まだやりたいことはたくさんある!
「――い……や」
 喉が震える。
「…………な」
 もうないと思ってた力が、体中に広がっていく。ゆっくりと、ゆっくりと体を起こして、立ち上がる。進んだかどうかもわからないぐらい少しずつ足を動かす。少しずつ、足にも力が入ってくる。
 右足、左足、右足……。
 突然、体が傾いた。右足が、なくなっていた。力んだ拍子に灰になった。左足、支えようとしたらこっちも崩れてしまった。
 また、地面にはりつく。
 右手、まだわたしには右手がある。十分、手があればつかみ取れるから。
 アスファルトに爪を立てて体を引きずる。
 どこに行くかなんてどうだっていい。わたしは進む、進みたいから。
 このままいなくなるのは悔しいから。
 ――そう、悔しい。悔しいよ。
 わたしは右手で目の前の足首をつかむ。
 これが表明。
 これは怨嗟、これは宣言。
 わたしは会いたい。だから……。

 口を開く。肺に空気を吸い込む。息を止める。
 そして――――




 男は自分の足元に倒れ付す少女を抱き上げた。四肢を右腕のみを残し失い、崩壊との境界にありながらも選択を果たしたその意志。
 たとえそれがいかなる存在に対する裏切りであろうとも、彼女は自らを欺き続けることを止めた。己の意志を示した。
「いいだろう」
 彼は彼女の体をどこからか取り出だした布で包み、闇夜にまぎれる。
 今宵は闇月夜、新月の夜。何もかもが身を潜め、息を潜める夜。
 黒い影は夜に紛れ、颶風となる。まるでそこにいたことが幻だったかのようにその姿はすでに遥か彼方。
 彼は使者、少女を真なる闇の世界へといざなう案内人として遣わされた、それが彼。
「その手で掴み取れるものならば成してみせるがいい。さもなくば、お前はそれまでだ」

 少女は最後にこう言った、
 声ならぬ声で喉を震わせ、揺らめく命の限り叫んだ。




 ――わたしは、生きる――