闇月夜     3/吟遊 T








 口の中に、何かが入ってきた。
 ぬらっとした感覚。熱を持って、やわらかい。
 なんだろう、よく知っているようでよく知らないモノ。
 でも、そんな疑問は次の瞬間には吹き飛んだ。
 その何かが喉を通り胃に落ち着いたとき、何かが、はじけ飛んだ。
「がっ、あっ、あああああああ!」
 苦しい、体中がバラバラに千切れ飛んでしまう。浮き上がってきた意識がそのまま飛んでいってしまいそうな、また沈み込んでしまいそうな激痛。両手の指が引きつって反対向きに曲がっていってしまうそう。肩ががくがく震えてそもまま砕るかもしれない。両足の膝はねじれて、足の指は自分勝手に踊り狂う。
 息ができない。皮膚の下は虫が這いずり回っているみたい。全身の骨が熱した鉄の棒みたいに熱くて、その瞬間氷の柱みたいに冷たくなる。背骨は棘を生やして回って体の中をミンチにしていくみたい。喉が裂ける。髪の毛が逆立つのがわかる。耳鳴りがして、自分が何を言ってるのかすらわからない。全身を滅茶苦茶に引っかき回したいほどの激痛。でも痙攣を続けるわたしの体はそれすらもできずに跳ね回るだけ。
 体が作り変えられていくおぞましい感覚。目が霞む、赤と白と黒の世界を行ったり来たり。体中の皮膚の感覚が異常なほど鋭くなって、ちょっとしたことが気絶しそうなほどの刺激。肌がシーツに触れただけで擦り切れて、ささくれて、やけどしてしまいそう。関節が外れてグニャグニャになって、支えるものがなくなってしまって体が一気に縮んでしまって、次の瞬間爆発したみたいに膨張するみたい。
 そして、そこにはまぎれもない凄まじい恍惚とした津波のような快感。
 そんな万華鏡のような苦痛の嵐は一瞬のようで、一日、一ヶ月、一年でもあった。
「はあ、はあ、はあ……」
 でも、それもいつかは終わる。苦しみの残滓の中で、わたしは安堵の吐息を漏らす。感覚が落ち着いてくる。両手は柔らかいシーツに触れてさらさらとして心地よい。まっすぐに伸びた両足は開放感。今まで苦しかったからか、今はとても穏やかで波間を漂っているみたい。
 茫洋とした心地、それも数瞬後には静かに打ち破られた。
「よく、耐えた」
 少しだけ高い声、その重々しい口調とズレてる感じのする声。冷たいけれど、何となく安心させてくれるような声。体を起こそうとする、けれど、どうやら軽く感じたのは気のせいで、ほんとうはまだそんなに回復していないみたい。意外なほど重かった体を上げるのに失敗する。しょうがないから首だけ回して声のした方を向いてみる。
 そこにいたのは女の子、わたしより少しだけ年下ぐらいの、ちょっとそこらじゃお目にかかれないほどきれいな女の子。うん、かわいいっていうよりきれいっていう方があってる。ただ、一目で分かることで、日本人じゃない。白い肌とか、顔立ちとかはわたしたちとだいぶ違っている。外国人から見て日本人は実際より若く見えるっていうから、もしかしたらこの子はわたしが思っているよりももう少し下なのかもしれない。
 しばらく彼女の顔を見て、彼女がわたしが何か言うのを待っていることに気づいてあわてて口を開く。
「あ、あの、ありがとうございます……」
「ほう、存外落ち着いているな。ふむ、手足も復元したか」
 そう言われてはっとする。左手、右足、左足……崩れて灰になってしまったそれらがちゃんとある。特に左手なんて一年ぶりの感覚にどう動かして良いのかわからない。おそるおそる握ったり開いたりしてみると、わたしが思い描いたとおりにそれは握ったり開いたり。間違いなく、これはわたしの左手だ。
 混乱する、何が起こったのかわからない。ただ一つだけわかることは、わたしがここに五体満足でいるといるということだけ。それ以上のことはわからない、でも彼女ならそれを知っているかもしれない。
「わたし……どうして……?」
 すると彼女は無言で手に持っていたモノをわたしに手渡した。何かの実。真紅のその果実は一かじりされていて、少しだけいびつな形になっている。
「え……あの?」
「喰らうがよい」
 なんて突然言ってくる。これを、食べる? 確かにこれは見た目は果物だし、食べられないものではないだろう。それにしても、もう少し説明があってもいいと思う。これだけでは何がなんだかわからない。
 彼女はわたしが手の中のその果実をながめていると、しょうがないといった感じで口を開いた。
「今更何を躊躇う? 今しがた貴様はそれを摂ったであろう」
 さっき、食べた?
 確かにこの実にはかじられた跡があるけれど、そんな力はなかったはず……。
 と、そこまで考えてあることに気がついた。あの激痛の前に感じた侵入してきた何か。
 もしかして――
「あ、あの、これを食べさせてくれたのって……?」
「妾だ」
「ど、どうして!?」
「貴様が虫の息であったゆえ、それを咀嚼し、含ませた」
 顔が真っ赤に染まっているのがわかる。それって――口移し?
「それで、如何にする?」
「え? なにを……?」
 彼女はなにも言わずにわたしの手の中にある果実を示した。
「それは貴様にと用意したものだ。如何にしようと勝手だが、それを喰らえばもう後には戻れぬ。それを決めるのは貴様自身だ」
「もう、戻れない?」
「生くか、それとも逝くか、決めるがよい」
「わたしは、もう……」
 そう言いかけた瞬間、彼女は身を乗り出してわたしの首を片手でつかみ、わたしの体を片手一本で吊り上げた。首がしまる、息ができない、苦しい。
「かはっ……」
「聞こえぬな」
「……」
「たわけ、貴様は生くことを選んだはず。それとも、それは空言であったか?」
「い……や」
「申せ」
「死に……たくない」
「聞こえぬ」
「わたしは、死にたくない!」
「なれば、如何にする?」
 わたしは両手を首にかかった彼女の腕にのばし、力ずくで外しにかかる。頭に血が上っている、混濁した意識の中でただ生きたいという衝動だけで腕に力をこめる。
「そうだ、振りほどけ。己が手で手に入れろ。諾々と屈し、諦観と逃避を履き違えるな。貴様は無力、脆弱だ。だが悲観することなどない、無力なれば力を得よ、脆弱なれば強靭なるものを生み出せばよい」
 言って、彼女は手を離し、わたしを解放する。結局、わたしは自分の力で振りほどくことはできなかった。
 そう思って自分の無力さ、非力さに暗い心持ちになった。
「今の貴様では妾の手を振りほどくことは敵わぬ。意志を示せればそれでよい。仮に妾が真に貴様をくびり殺そうとしていたのであれば、振りほどいていたであろうが、な」
 言いたいことはわかるけど、いくらなんでも乱暴だ。いきなり首を絞めるなんて無茶苦茶。でも、これを食べることがどうして生きることに繋がるのだろうか。
 そこまで考えて思い出す。わたしはこの欠片を一つ食べただけであんな状態から回復した。つまり……。
「これを食べると、どうなるんですか……?」
「力、そして命だ」
 彼女は口をくっと歪める。手の中のものに目を移す。そして思い出す、あのとてつもない苦痛と快感、そして充足感。
 ――ホシイ、もっとホシイ。あの命の欠片の結晶がホシイ。
 喉がなる、体がそれを欲しがっているのがわかる、そして今のわたしにはそれを拒む理由もない。この果実が何なのか知らないけれど、これを食べるか食べないかなんて選択の余地なんかなかったんだ。
 だから、わたしはそれにかじりついた。
 味なんてわからない、ただ、本能的にそれがとてもおいしいのがわかってしまって、手が止まらない。むしゃぶりつくみたいにそれを噛み、咀嚼し、喉に押し込んで胃に収めた。最後に軽いおくびを洩らしてしまい赤面しそうになったけど、そんな余裕なんてなかった。
 衝撃ドクン

 さっきのものとは比べ物にならないほどの苦痛と快感に、わたしの意識は消し飛んでしまった。