闇月夜     4/吟遊 U








 次に目が覚めたとき、世界が変わっていた。
 正確にいえば、変わったのはわたしだ。ただ目を開いただけで、今までは気がつかなかったような細かいことが意識にかかる。視界の外のものさえ空気の流れを肌で感じ取って、そこにあるということがわかる。異常なまでに鋭敏化された感覚、だけどそれが負荷にならない。頭がその膨大な情報を苦もなく仕分け、整理し、受け止め、処理していく。
 体が軽い。そう感じて上半身を起こしてみる。前にそうしようとして失敗したことが頭にかかったけれど、どうしてか全く不安もなく、自然と身を起こせた。本当に軽い。
 そのとき、ばさり、と音がして何かが背中にかかった。髪だった、わたしの髪。二つにくくっていた髪、さっきまでは首にかかるぐらいの長さだったそれが、今は背中にかかるどころか立ち上がったら足首まではありそうなまでに伸びていた。ほどいたら背よりも長いかもしれない。突然のことに驚く。でも、それを当然のように受け入れてしまっているわたしもいる。
 髪が伸びるのはわたしたちにはアンテナを広げるようなものだから、長く伸びるのは驚くようなことではない。
 軽く手を握ったり開いたりしてみたあと、視線を横に向ける。そこには先ほどの彼女がいた。
「あの、わたしどれくらい……もしかしてずっと――」
「五時間ほどだ。存外、早かったな」
「ずっと、そこにいたんですか?」
「そうだ」
「――どうして……」
「目が覚めた折に誰もその場におらぬのでは何かと都合が悪かろう。なにより、今妾の興味は貴様にある。なればこの場を離れる理由もなくて、離れるぐらいであれば待とうというもの」
「わたし……?」
 わたしが、興味の対象?
「して、どうだ?」
「何が――ですか?」
 そう聞くと彼女は表情は変えないまま明らかに非難の視線を向けてくる。そんなこと分かっているだろう、とでも言いたいかのよう。いや、実際言っているんだろう。
 わたしのさっきまでと違うことといったらただ一つ。
「――体が、軽くなって、楽になって、今なら何でもできそう」
 答えると彼女は満足そうに唇の端を吊り上げる。教師が生徒が望んだとおりの結果を出したときに見せるような表情。
 どうやらわたしは彼女の期待に十分に応えたらしい。
「あれを持ちこたえられる者などそうはおらぬ。凡常でなくとも耐えるに至らず崩壊を起こす、まして凡百の者など崩壊を待たずして滅び去るであろうな。――よくぞ、半ば崩壊を起こした肉体でありながら耐え抜いた」
 なんのことかよく、わからない。ただ、あれは危ないものだったということだろうか。
 でも、そんなことよりもどうしても気にかかることがある。
「わたしは……生きて、いいのかな」
 そう言ってはっとする。気を失う前に同じようなことを言って、首を絞められたばかりなのに、わたしはなんて馬鹿なことを言っているんだろう。
 しかし、彼女はそんなわたしをじっと見て――その表情からは内心が全く読めない、ただ無表情にわたしを見て、言った。
「何故、その程度のことを気に病む? 今しがた己の意志で生きると告白したばかりであろうが。貴様は産まれ出づるに際して何者かより許可を得たか? 成長してよいかと何者かを仰いだか? ――そら、あるまい? なればこれより生き続けるために何者かに断る道理などない。否定する者あればそれを否定するがよい。阻む者あればそれを地に這わせるがよい。奪わずして得られるなどと夢を見るな。他の者達も生きようと、得ようと貴様から全てを奪わんとするぞ。何者からの許諾もそこにはない。その者達が己で決め、成す。なれば貴様も奪え。――権利だと? そのようなものなどどこにある? 双方にある限り、矛盾がある限りそのような物は働かぬ。権利とは絶対だ。相対になど、ない」
 それでも、わたしは俯いて、こう答える。
「誰からでもなく、わたしがそれを許さなかったら……。わたしは自分が許せないから、ひどい自分を知っているから」
「申したはず、逃避と諦観を違えるな。――自身の否定など妄想に過ぎぬ、否定する自己なくして存在できぬのであれば、否定し続けるために在り続ける他あるまい。――生きる意味など妄言に過ぎぬ、そのようなもの後々いくらでも付いてこよう、それでも無くば生み出すがよい。“在る”こと以上のものなど無いのだからな」
 そこで一端区切って、また口の端をくっと上げて続ける。
「なお己が許せるぬのであれば、妾が許そう。……どうだ、ここに貴様が生くことを認めた者が一人いる。妾が認めた。生くことがある者に対する裏切りなれば、今己を否定することは妾に対する裏切りぞ」
 それはあまりにも無茶苦茶だ。あんまり無茶苦茶なものだから思わず目を見開いて、何もいわずにぽかんとしていた。大口を空けて、間抜けな顔の一つでもしているのではないだろうか?
 彼女はわたしが聞きたかったことを、いや、言いたかったことに対して先回りして答えられてしまった。なんだか全てお見通しのような感じ。
 わたしの抱えている悩みなんて大したことじゃないって言う。その割には結構きついことも言われているけど。
 わたし、少し楽になったのかな。この人はなんどもなんども、わたしに生きていいんだって言ってくれているんだから。
 でも、それは身勝手。
 ああ、身勝手でいいって言われたっけ。
 視界が霞んでくる。
 あれ? おかしいな、視界がゆらゆらゆらゆらとふらついて落ち着かない。
 わたしはずっと自分はもう生きてはいけないって言い聞かせてきたのに。
 お腹が痙攣する。
 だからずっと耐えてこれたのに。
 喉が鳴る。
 この人はいいって……。
 わたしは、たった一人に生きていいって言われるだけで、こんなにも耐えられなくなる。弱い、わたし。
 口がへの字になっていく。
「そうだな、まずは己の内を洗い流すがよい。答えを見出すのは今でなくともよい、時をかけて見出すが良かろう。答えの欠片など、いくらでもそこらに転がっているものだ。――ただ、見誤るな。答えは決して単一ではない。種々のそれを見極め、それらより自身の答えを構築するがよい。誰しもが、かように求め、生きている」
 何を言われているのか、もうわたしにはわからない。わたしは、一年の間自分を押し込め耐えてきたそれを、ときおり洩れ出てしまったけれどそのたびに蓋をしてきたそれを、思いの限り吐き出した。
 わたしは、泣いた。
 思い切り泣いた。
 ずっと流せなかった涙を、ずっとずっと押し殺してきた声を、一年分のそれを恥ずかしいぐらい何もかも吐き出して、あたりに叩きつけた。
 泣いて泣いて、わあわあ泣いた。
 嬉しくて、苦しくて、楽しくて、悲しくて……。
 疲れきって、なにもかもすっきりするまでひたすらに、ただただ泣き続けた。

 そして、そんなわたしを何も言わずにただ彼女は待ち続けていた。






 わたしが気がすむまで泣いて、疲れて、さっぱりしてしまうまで待っていた彼女は、わたしが落ち着いたことを確認すると立ち上がった。
 そしてそのままドアに向かう。
「あ、あの」
 わたしは彼女を呼び止める。
 立ち上がった彼女はそうして見るとはっきりとするのだけれど、動きやすそうなドレスを着ていた。黒い上等そうな生地を使ったきれいなドレス。別に装飾はそんなにないのだけれど、その分シャープ、という表現がしっくりくる。彼女自身が華美な印象がなくて落ち着いた雰囲気があるからとても似合ってる。女の子としては溜息を洩らしたくなるような姿だ。今の今までわたしは余裕がなくてそんなことにも気がつかなかったらしい。
 それと、もう一つ大事なことを忘れていたのだ。
 それどころじゃなかったというのもあるけれど。
「わたし、弓塚さつきっていいます。――その……あなたは……」
 すると彼女は振り返り、薄く笑って返した。
「アルトルージュと呼ぶがよい」
 その顔はとても満足そうだった。
 この人、アルトルージュさんが名前を聞かれたぐらいで満足するとも思えないから、きっとわたしがまた生きることを自分で認めたことに満足しているのかな。
 自分で言うと自意識過剰かとも思うけれど、なんだかそんな気がした。
 アルトルージュさんはそのまま扉に手をかけて部屋から出て行く。
 その時、また足を止めて振り返る。そしてそのまま穏やかに、まるで言い聞かせるように言う。
「今は眠れ。これより後のことについては目が覚めてより話そうぞ。そなたに紹介する者もいる」
 彼女は部屋を後にしながらこう言った。
「そなたの物語は未だ開かれておらぬ。それを紐解くはそなた自身、その中に書き記すもそなた自身。そなたは新しい生を手にし、そこから何を掴むであろうな? そなたはいか様にその物語を吟じ、妾に何を聞かせてくれる?」
 そして、ドアがパタンと閉じる。
 わたしの意識もさっきの疲れもあってかそのまま闇に沈んでいく。
 最後にわたしを呼ぶとき、“貴様”から“そなた”にと、呼び方が変わったなと思ったけど、そのことを深く考える間もなくわたしは眠りの暗闇に落ちた。
 久しぶりの、ほんとうに久しぶりの安らかな眠りだった。





 ――おやすみなさい……。