闇月夜     8/クレイドル








 あれから数日たった。
 まだわからないことばかりで、それでも毎日いろいろなことを教えられた。もう頭がいっぱいになってしまって、情報は現在処理待ち状態。次から次へ流れ込んでくるたくさんの知識を仕分け、片付けて、また引き出して確認していく。
 驚くことばかりだった。今までわたしが見ていた世界は、ちょっとしたことでこの、信じられない存在が跋扈する日常に覆いつくされそう。でも、不思議とそうはなっていない。少なくとも大きな事件になっているとは言い切れない。なにせもうずっと、こういった世界は怪談とか御伽噺の中だけであり続けたのだから。
 とは言っても、時折こちらからあちらにはみ出ることがあるらしい。その結果の一つがわたし。そして三咲町はその異常に相当侵されていたらしい。わたしは知らなかったけれど、ホテルから泊り客が一晩で消えてしまったり――あれはネロ・カオスという死徒の仕業らしくて、そのあと遠野くんに……殺されたそうだ――そしてわたしが巻き込まれた吸血鬼殺人、それも一つ。
 他にも、冬木市というところでも何かあったらしい。アルトルージュさんは聖遺物がどうとか言っていたけれど、さっぱりわからなかった。たぶん、わたしにはそう関係ないだろうから気にしないでいいとのこと。

 薄皮一枚、それがこちらとあちらとの差。昔はそれもなかったらしい。人間が科学という彼らに対抗するだけの力を手に入れた今、彼らもまた余計ないさかいを避け、歴史の闇に潜むことにしたそうだ。たまに起きる怪奇事件などは間欠泉のようなもの。そういったことを隠蔽することはおよそいかなる勢力も異論なく、それに対する妨害などは稀だそうだ。
 危うい均衡。それが世界の現状。
 知らなかった。
 いや、こうでもならない限り、知ることもなかった。
 知ってしまった。
 “それならば、それなりの身の振り方もあろう?”
 まったく、そのとおり。わたしはこれからの自分の立場を考えなければならない。流されて、レールに乗っているだけでよかった今までとは違う。道は示してもらえる、アルトルージュさんたちはわたしを出発点まで導いてくれるだろう。だけど、それまで。その道を歩むかどうか、そもそも進むか、戻るか、それを選ぶのはわたし。
 でも、そのためにも準備は必要。だから、今わたしはこうしている。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、なんでもありません」
「それならばよいのですが……」
 ここはわたしに用意された部屋。
 今、わたしはセンティフォリアさん他、日本語が話せるメイドさんたちに英語を教えてもらっている。習得具合はというと、順調とは言い難い。教えられる内容は驚くほどすらすらと頭に入ってくる。だけど、だからといって使いこなせるわけでもなく、聞き取りも耳が慣れていない。こればっかりは地道な積み重ねがものをいう。
「やはり、ドイツ語の方がよろしかったでしょうか?」
「もっと無理です。自分の語学力の無さを痛感しているだけですし」
「こういったものは反復が大切ですから、そう焦る必要はございませんよ」
 ――わだかまり、一つだけ、今になって湧き上がってきた疑問。
 ああ、どうしてこんな根本的なことに気がつかなかったのだろう。違う、気が回らなかっただけ。
 わたしは今ここにいる。ここでこうしてのんきに英語を覚えようとしている。
 笑っちゃう。こんなことになって、こんなところにいるのに、やっていることは学校でやっていたことと何が違うのだろう? 意外とどんな世界でも基本として持つものは同じなんだろうか? こうして、誰もが自分の足元を固める材料を得ていく。それは今も一年前も変わらない。
 でも、それが終わったら? わたしが自分の立場を決めてしまったら、わたしはどうすればいいんだろう?
 いや、それも違う。順序が逆、立場を決めたのなら、もう何をするのか悩みはしない。
 ふと、気になる。なら、今のわたしはどういった場所に立っているのだろう?
 アルトルージュさんの庇護の下、と言われはしたものの、具体的にはよくわからない。庇護の下、わたしは何なんだろう? 目の前にいるセンティフォリアさんやフィナさん、リィゾさんとの違いは? フィナさんとリィゾさんは騎士らしい、アルトルージュさんを護る騎士。つまりそれは相互に意味があって、庇護ではない。センティフォリアさんたちはこの城で働いている。彼女たちは皆、自分の意志でここにいる。わたしは、成り行きでここにいる。
 わたしは、ここにいることを選択するのだろうか? わたしは何を求められて、何ができるのか? まだ、それすらもわからない。ただ、濃い霧の中を足元のしるべだけを頼りに、聞いたことがあるだけの目的地を目指して手探りで進んでいる。
 溜息が洩れ出る。
「ここまでにしておきましょうか? お悩みであれば、私にでもいくらでもおっしゃってくださいね」
「――わたしは、一体、何なんですか? ここでこうしてもらっているけど、わたしってここではどんな意味があるんですか?」
 するとセンティフォリアさんは手に持っていた本を丸テーブルの上に置いて、こちらを向いて穏やかに、なだめるような微笑を浮かべる。
「姫様にとって、さつき様がどのような意味をお持ちか、とのことでしたら私の口からは申し訳ありませんが失礼させていただきます。姫様にとってさつき様がいかなる意味をお持ちであるか、それは姫様以外の方がお答えするわけには参りませんので。――ですが不足かと存じますが、私にとってさつき様は主人です。ここで関係を持った方全てがさつき様との互いに各々の意味関係を築き上げています。――とはいえ、そうですね……この城におけるさつき様のお立場は、今のところお客人、と申させていただきます。ご自身の足元をお固めになられた後ここを出てゆかれるのも、ここに残られるのもあなた様次第です。ですが私としましては、これからもさつき様や姫様方にお仕えしていきたいと――そう、思っていますよ。他の者も、そうお答えするでしょうね」
 センティフォリアさんは淡く微笑んでくれる。わたしよりも何倍も生きているこの人はわたしをどう見ているのだろう?
 わたし次第……わたしが求めて、選択して、この人たちはそれでいいのだろうか? それを認めるほど、わたしに価値があるのだろうか?
 わたしの価値はわたしが決めるもの。でも、それ次第では彼女たちを踏みにじることになるのではないだろうか?
 アルトルージュさんに言わせれば、“それがいかほどのものであるか?”とでもいうのだろう。まだ交わした言葉は少ないけど、あの強烈な個性の持ち主はそう答えてくれるだろう。
「ごめんなさい……つまらないことを答えてくれて……わたし、まだ何も決められません。ただ、ここにいるだけでどうにかなるとも思いません。――したいことはあります。でも、それは遠すぎてよく見えなくて、そこに近づくためにはまた何かをしなくちゃいけなくて、それが何なのか全く見えなくて……。“したい”って意志だけで、実際はまだ何もできない。願うだけで、それだけのわたしは実は無意味な存在なのかなって、何度も不安になるんです。でもその度にアルトルージュさんが言った言葉がそれに答えてくれているんです。それでもやっぱり見えなくて不安になるんです。――そう、ですね。だから、今ここでわたしはこうしているのに……」
「お悩みなさいませ。それが糧となります。今のうちに悩めるだけ悩めば、後で悩まなければならない分は減るのですから。それがまた繰り返すのであれば、それだけの価値があります。それは大変よいことです。ですが、お一人で抱え込む必要もございません。――姫様もそうおっしゃりませんでしたか?」
 わたしは無言で頷く。そう、言われた。ずるいや、あの人はわたしが知る限りいつだって先回り。一体どこまで先を見ているんだろう? わたしが今悩んでいることもお見通しなのだろう。全てをあの人に委ねてしまいそう。でも、そんなことしたらまた張り倒されるに違いない、“たわけ”って。どこまでも我欲を追求する、それが彼女がわたしに求めたこと。欲深く、手に入れるまで絶対に諦めない。
 結局、当面はこうやって言葉を覚えることになる。なんだ、また同じ地点に戻ってきてしまった。でも、また一回りして取りこぼしてきたものを拾ってきたのだから、それもまた意味のある思索の循環。
 頬が少しだけ緩む、また悩めばそれからまた得よう。
 センティフォリアさんはふとそこで顔を上げ、扉の方を向く。耳を澄ますと、足音が廊下に響いている。メイドさんなら足音を殺して歩くから彼女たちじゃないだろうし、なぜか見た目が男の子というような歳の執事でもないだろう。
 センティフォリアさんがこちらの方を向いて、腰を上げる。
「失礼しますね」
 それと前後して、足音の主はこの部屋――わたしにあてがわれた部屋の前で立ち止まり、扉を叩く。すでにそこに向かっていたセンティフォリアさんは間をおかずに扉に手をかけ、わたしの意志を確認するように振り返る。それに対して少し驚いて首を縦に振る。彼女は扉をゆっくりと押し開き、そこにいた人物を招き入れた。
 扉から優雅に歩を進め、彼はまるでこれから遊びに行くような声でこう言った。
「やあサツキ、調子はどうだい?」