闇月夜     9/碧の三日月








 ここはミュンヘン。初めて見る町並み。歴史ある町並み。石畳にレンガ造りの家々。そうかと思うと現代的な建築物もあるところにはある。市庁舎の鐘楼の仕掛け時計にはさすがに驚いた。わたしが今まで触れていた文化とは全くかけ離れた世界。死徒になって違う世界に放り込まれたものと思っていたけど、違う世界なんて飛行機にでも乗って移動すれば触れられるものだった。程度の差こそあれ、これもまた違う世界だった。

 それで、なんでわたしがここでこんな感慨を洩らしているのかというと、それには当然わけがある。先日センティフォリアさんに英語を教えてもらっているときに――正確にはそれが終わったときに、わたしの部屋にフィナさんがやってきた。そして開口一番“街に出たくはないかい?”と聞かれた。
 別段城の中で今やっていることに不満ではなかったのだけど、それはとても魅力的な誘いだった。なにせ、もうかれこれ一年もの間“街”というものから遠ざかっていたのだから。
 わたしは二つ返事で同行の申し出を受けた。その後、出かけるのはその次の日とのことなのでフィナさんはそのままわたしの部屋を去り、わたしも準備をしようかと思ったもののそもそも私物は何もないことを思い出して手持ち無沙汰な時間を過ごした。

 結局、城の中を散策して片言の英語と日本語でいろいろな人――とはいっても吸血鬼、死徒なのだけど、と話して回っただけ。その途中リィゾさんに会って、リィゾさんも来るのかどうか尋ねてみるとそうではないらしく、街に行くのはフィナさんとわたし、あと必要なら侍女――この場合はセンティフォリアさんだけらしい。そもそも街に下りるのはわたしの気分転換と私物を揃えること、それとフィナさんの趣味なのだそうだ。
 いくらフィナさんの趣味でも、やっぱり気が引ける。私物を揃えるってことは、つまり買ってもらうということで……もう完全に扶養されているようなものだ。ただ、それでも着替えすらないのは少し寂しいし、一応あるにはあるのだけど、皆同じデザインのもので控えめに言っても変化に乏しい。どうもこの服、この簡易ドレスのような服はメイドさんたちがメイド服を着ていないときに着ている服らしい。彼女達も街に下りると限ったわけではなく、時折城から出る時に外出用の服を持っているので、わたしのものも揃えてくれるそうだ。
 不謹慎なことかもしれない。でも、楽しみだった。

 日没前、わたしはいつもよりは早い目覚めのあと、センティフォリアさんから借りた服を着て部屋を出た。サイズに関しては大は小を兼ねるといったところで、ウエストとヒップ以外は大きめだったけど、おかげで着る分には問題ない。逆を言えば……止めておこう。
 それから前日の打ち合わせ通り城の玄関――という程こじんまりしたものではないけど、要はそこに当たる場所で待っていたフィナさんと共に城を出た。そこにあったのは……。
「車?」
 そこにあったのは一台の車。濃緑色のつややかなボディ、空気抵抗を可能な限り減衰させるための流線型の滑らかなフォルム。そこにあったのは美しい、それでいて見慣れたものがあった。
「ああ、自動車さ。なんだい、その目は? まさか空を飛んでいくとでも思ったかい? 不可能じゃないけどね、意味がない。走っていってもいいけど、ここは普通にいこうじゃないか」
 よく見てみると、そこから一本の舗装された道が伸びている。言われてみれば至極もっともなことで、文明の利器を活用するに越したことはない上、これから人間社会に入り込むためには当然のこと。
 そう納得して車に乗り込むことにした。運転はやはりフィナさんで、わたしは後部座席。それとセンティフォリアさんが助手席に乗ることになった。
 彼女には別に付いて来てくれなくてもいいって言ったのだけど、“不自由なさいませんか?”の一言で現実を直視したあと結局来てもらうことにした。街に行ったら行ったでいつもフィナさんに付いていてもらうわけにはいかないし、なにより服をあわせるときには同性のセンティフォリアさんでないと何かと不都合がある。

 そういった経緯を経て、今わたしはこの繁華街にいる。
「それで、どうする? 僕は別行動でもしておこうか?」
「あ、いえ、無理には……」
「それなら好きにさせてもらうことにしようか。何、人と会う約束があってね。ちょうど良いから今日にしてもらったんだ。――それと、言うまでもないだろうけど、身辺には気をつけるように。安全の問題ではなくて、正体がばれないように。そうそうばれることはないだろうけど、それでも一応こちら側の人間も街にいないこともない。そのあたりの気配りはこの彼女がしてくれるだろけど、君も忘れないように」
 言い残して、フィナさんの姿は雑踏に飲まれていった。
 今は日が落ちて間もない時刻。もう少ししたら商店も店じまいを始めるだろう。遅れてしまってはここまで来た本来の目的を果たせなくなってしまう。少し、急がなければ。
「そういえば、どこに行けばいいのかな? センティフォリアさんは知ってるんですか?」
「そうですね、とりあえず量販店でいかがでしょうか? お望みであれば相応のところでオーダーもできますが……」
「い、いえ、最初ので大丈夫です! わざわざそこまで……!」
 言うと、彼女はクスリと笑う。
「ではそれはまたの機会、ということにいたしましょう。あまり時間もございませんし、そちらの、通りの先にあるあそこに向かいましょうか」
 そして彼女とわたしは連れだって街路樹の下を歩く。目的の店まではあと少し、そう時を待たずしてたどり着くだろう。
 買い物自体はそう難航しなかった。わたしがその場にあるものでその以上を要求しなかった――というより、要求しないようにした――のであっさりと買うものが決まった。決して趣味に合わないものだとかではなく、その店にあるものからわたしの趣味で選んだものなので不満はない。ただ、わたしが服を選んでいる間、センティフォリアさんがなにやらある注文つけてきたので、それに応じたものも買うことになり、結果わたしが予想したものよりも随分と多く買い込むことになってしまった。
 それから別行動をしていたフィナさんと合流し、城に帰ることになるのだけど……。





「まだ、用事が残ってたんですか?」
「いや、今できた。――正確に言うと、今までならその用事は予定されたものであって、そのときは用事ではなかった……。……まあ、こんなことを言っても意味が無いか。――センティフォリア、例の物は?」
「はい、こちらに」
 そう答えた彼女は、袋を――先ほど出てきた店で買った服が入った袋のうちの一つをフィナさんに手渡した。一つの袋に入りきれなかったあたり、我ながらあつかましいと思った。
 そんなことを考えて二人とその紙袋を眺めていると……。
「そんなに心配しないでくれ、別に君の服に妙ないたずらをしようってわけじゃないんだから。ただ、少し貸してもらうよ。ああ、違う違う、変な意味はないからそんなに睨まないでくれ」
 わたしは睨んでいたのだろうか? そうかもしれないし、そうでないかもしれない。でも、気になるのは確か。
 何を、どうするつもりなのだろうか、この人は。
「それじゃあ、行こうか」
「え?」
「これを持って行かないと意味が無いからね。君も来るだろう? 来ないのなら彼女と車のあるところまで電車に乗って行ってくれても構わない。どちらにしろ車は郊外にあるから後から僕も行く。それとも、もうしばらくここいらを回ってみるかい?」
 それに対し、わたしは首を横に振る。
「そうだろうね、では、来てくれ。なに、そう歩かないよ」





 ここはバーと呼ばれる場所だろうか? 薄明かりの中、様々な人が卓を囲み、アルコールの入った杯を傾け談笑している。
 歌う人もいれば、手近のおじさんを捕まえて昔話をしていると思われるおじいさんもいる。視線を横にずらせばそこには大きな笑い声を上げながら――仕事仲間だろうか――青年から壮年の男の人たち、そしてあちらこちらを忙しく回るウェイトレスたち。
 わたしは今、そういった場所にいる。
 場違いも甚だしい。そもそも、こういった場所に来た経験すらない。ただただ、周りの空気に圧倒されるだけで、どぎまぎしながら事の運びを傍観するだけ。こんなことならいっそのこと先に戻っていた方が良かったかもしれない。
 フィナさんはわたしたちの対面の席に座っている女性となにやら話し込んでいて――別に口説いているわけではなく、彼女は使いの者で、交渉役だそうだ。何の交渉役かと言えば、わたしにはわからない。わかっているのはそれが例の紙袋の中身の服だということぐらい。
「――」
「――」
 わたしにはわからない言葉で会話は続く、一体わたしは何をしにここに来たのだろう? この場においてわたしはただの傍観者でしかない。センティフォリアさんにでも頼めば通訳をしてくれるのだろう。でも、わざわざそこまで手間を掛けるのも気が引ける。
 そうこうしている内に、フィナさんが前に座る彼女に何かが書かれた紙を渡す。彼女はそれに目を通し、息を呑んで疑わしげにフィナさんを、そして次にわたしに目を向ける。その目は間違いなく疑惑だけではなく、好奇のそれの色も見て取れる。
 でも、わたしは何もわからないから、小首を傾げて彼女を見返すだけ。彼女は再びフィナさんに視線を戻した後、ゆっくりと、探るような目つきでその顔を見る。それに対してフィナさんは微笑を浮かべるだけでそれ以上何も取り合おうとしない。
 彼女は最後に一つ二つフィナさんと言葉を交わし、席を立つ。わたしがその背を見送っている間にフィナさんも立ち上がり、センティフォリアさんもそれに続く。それを目にしてあわてて立ち上がり、バーを出る。勘定はセンティフォリアさんが済ませたらしい。
 無言で通りをしばらく歩いた後、そろそろ郊外への電車が出る駅にさしかかったところでわたしは口を開いた。
「結局、どういうことですか?」
「何がだい?」
「全部です。あの袋に入っていた服とか、あの人は誰なのかとか、それに何を驚いていたのかも」
 それを聞いたフィナさんは軽く笑う。
「まず、最初の質問に答えると、後のお楽しみ。別に悪いことじゃないよ。少しばかり細工を頼んだだけさ。二つ目、彼女は魔術協会の使者。一応マスタークラスには上がっているみたいだね。院の中でもそれなりの階級にはあるそうだけど、僕たちにとっては些細なことさ。交渉の相手として以上の意味はないよ。――そして最後。交渉というからには何らかの取引、それに対するこちらの提示した報酬があちらの予想よりも多かったみたいだね。口止め料も込みだと言って納得してもらったよ。何の口止めかって? 君は、自分の服のサイズやらの詳細を不特定多数に知られてもいいのかい?」
「あ、それは、ちょっと……あの、それをフィナさんは……?」
「知らないよ」
 それを聞いてわたしは安堵の溜息をついてしまった。吸血鬼に――死徒になってもわたしのメンタリティは変わったわけではない。あまりそういったことを知られるのは遠慮したいところだ。
 そこまで考えて思わず表情をゆがめる。わたしは――変わってないのだろうか?
 でも、わたしはわたしであって、わたしの観測者たりえない。観測する側がその対象と共に変化を続けているのでは、そこから得られた情報は客観的になんら意味をなさない。まるで静止衛星。
 目を伏せ、一つ息をついてから顔を上げる。早くしないと前を行く二人を待たせることになってしまう。
 変わっていようといまいと、ここにこうしている。主観でしかものを見ることができないわたしには、それしかわからない。でも、それでいい、誰だって、そうなんだから。
 今のわたしの頭にあるのは、帰って何をしようか、といった程度のもの。まずは袋の中から今日手に入れた様々な物を取り出して、片付けなくてはならないだろう。
 今はまだ、流れに沿っているだけ。でも、その内その流れにも分岐が訪れることだろう。そのとき、わたしは始めて舵を取る。そのときまでこの新しい、風変わりな日常を楽しむのもいい。

 いけない。また考え事をしているうちに二人に遅れてしまった。
 少し先でわたしを待っていてくれている二人に向け、わたしは歩を進めた。