闇月夜 10/夜想 |
はたきを持った手を下ろす。この城はとても広い。いや、広いというよりは大きいと言うべきか。わたしは今、その城の中にある部屋の一つ――この部屋もまた広い――を掃除している。 わたしに掃除をする必要はない。あるとしてもせいぜい自分の部屋程度。それすらもセンティフォリアさんや他のメイドさんがしてしまうので、最近のわたしは言葉を教えてもらっているときや、時折持ってきてくれる本、雑誌を読んでいるとき以外はすこぶる時間を持て余していた。端的に言えば、暇だった。 わたしにも手伝えることはないか? そう思い何かできないかと申し出た。少し困った顔をされたけど、掃除の手伝いをさせてくれることになった。掃除をする部屋は広い、でも、そういったあまり意味のない行為だって熱中して他の様々な問題を――どうやっても頭から離すことができない問題を一時でも忘れて没頭できることはありがたかった。 別に問題から目を背けたいわけではない。それでも、その事柄以外に考えることが浮かばない毎日はひどく精神を圧迫する。 毎日毎日毎日同じ事を考えているばかり、メイドさんたちもそのことをわかってくれて、本当ならこんな彼女たちの矜持を損ねることにも繋がるお願いも聞いてもらえた。 今は丁度脚立に乗って、少しばかり高いところのほこりを落としていたところだ。基本的に掃除は行き届いているので、そう汚れているわけではない。毎日のこういった欠かさない掃除の成果だろう。 そうやって掃除を続けていると、小柄な人影が扉をくぐってきた。 「ああ、ここにいたのか」 そう言って、その少年は目を細める。 そう、少年だ。見た目はわたしの感覚で言っても十四歳前後に見える、赤毛のすこぶるきれいな少年。街を歩いていたら十人中九人は間違いなく振り返るだろうその少年は、見た目とは裏腹に驚くほど長い時を過ごしてきたそうだ。 「あの、何か?」 首を傾げ、尋ねる。 彼はこの城において執事のようなものだ。さらに言及すれば、その見た目の若さに反してその中でも筆頭の一人。もっとも、この城で執事といったらほとんどが彼のような少年の姿をした者ばかり。老紳士とでも言うべき人もいるにはいるけど、立場的にはこの少年の方が上。 聞けば、彼らは皆フィナさんの眷属ということだ。どうもそういう趣味があるとかないとか。 そして、彼――ヴォルフラムくんは面白げに言う。 「姫様が君を呼んでいるよ。ああ……とりあえず着替えていくことをオススメするけどね」 繰り返すようだけど、この城は広い。その通路を歩く人物の足音がここにいても聞こえてくる。反響音が大きいのか、聴覚が向上しているのか、それとも両方か。それはともかく、わたしの耳は石畳の床をかかとで叩く硬質の音を捉えていた。 その音が、この大広間――部屋というよりもやはりこう呼ぶべきだろう――の扉の前で止まったので、そちらに目を向ける。 部屋の大きさに相応しいその大扉はゆっくりと押し開かれ、そこからやや小柄な体を飲み込んだ。 漆黒の髪、闇色の、装飾が少なめで凛としたドレス、全てを見透かすかのような紅い瞳。それをまとうのは超然たる、一つの芸術品のような少女。少女でありながら、少女ではないその魂。 アルトルージュさんだった。 彼女は広間に入ってきて辺りを見回し、その目をわたしに止める。そのときわたしは脚立の上にいたので、自然と見上げる形になる。 ただ単に物理的に彼女を見下ろしていることにひどく違和感を覚えてそこから飛び降りる。結構な高さがあったけど、死徒の体になってからはこういう横着ができるようになった。 飛び降りたわたしを先ほどから楽しげに見つめ、彼女は言った。 「愉快な格好をしているな」 視線を自分の体に、正確には今着ている服に巡らせる。わたしが着ている服。掃除等の作業をするときに、服が汚れるといけないからとメイドさんが貸してくれたメイド服だった。 スカートの丈が足首まである厚手の紺色のワンピースにカチューシャ、胸元には真紅のスカーフみたいなタイ、ワンピースのデザインに合わせたエプロンやパンプスなど、丸々一式渡された。 この際だからと面白半分に着てみたところ、腰の高さの違いを思い知らされた。気にすることはないと遠まわしに言われたものの、やはり気になる。それ以前に、口にはおろか顔にすらそういったことは出していなかったのだけど、そこは同性、あっさりと内心を看破されてしまった。 「え、あの、その……」 「話がある。妾の部屋に来るがよい」 「あ、着替えてきて、いいですか?」 すると彼女は方眉を上げ、心外そうに言う。 「よもや、その風体で来るつもりであったか?」 「今すぐならしょうがないから……」 「――着替え程度も待てぬと、そなたは妾をそう見ておるのか」 「そ、そんなわけじゃ……ご、ごめんなさい……」 俯く。でも、顔を上げて見てみれば、彼女は少し可笑しそうにしている。 ……からかわれた? 「どうした。早く行かぬか。妾は気が短いのではなかったか?」 なんて意地悪く言ってくる。 「ええと、あの、その」 口ごもる。しばしの煩悶。 そこでふと気づく、一体自分は何をやっているんだろうと。着替えに行きたいと言って、行っていいと言われて、何をやってるんだろう? 周りを見渡してみる。そこにはメイドさんたちが苦笑を浮かべてこちらを見ている。ヴォルフラムくんに至っては背を向けてどんな顔をしているのかすら分からない。 わたしは決まりが悪くなって、退散するように部屋に戻った。もちろん、服を貸してくれたメイドさんにお礼を言うことは忘れなかったけど。 |