闇月夜 11/紅い唇月 |
着替えを終え、急いでアルトルージュさんの部屋に向かった。 彼女の部屋は城の奥まったところ、まさかわたしの部屋みたいに適当なところにあるはずもなく、それ相応の特別な部屋だ。 今着ているのは薄い緑のブラウスに膝下まであるゆったりとした薄茶のコーデュロイスカート、この間買ってきたものだ。 ノックをするとすぐに入って来いとの返事があったので、扉を押し開ける。この扉、意外と質素で飾り気が無いのが彼女らしいと思った。 中に入ると、アルトルージュさんはバルコニーに出て、外を眺めていた。ここから見える風景は、ただ、森。日が昇れば遥か遠くに薄い山の輪郭も見ることができるだろう。でも、今は夜。夜明けが近いとはいえ、太陽は未だ地平線の下。わたしは何かに引かれるかのように彼女の背に向けて歩き出した。 「そなたは、何を知った?」 わたしがバルコニーに出てきたとほぼ同時に、彼女は問いかけてきた。その眼差しは遥か地平。 「――否、何を思った?」 振り返り、わたしの目を正面から貫く。その紅い瞳には何も浮かんでいない。ただ、ここにいるわたしをそのものとしてだけ見ている目。 「……」 答えようと口を開く。でも、答えようとした内容を口に出す前に踏みとどまる。果たしてそれはわたしの本心なのか。 そしてまた口を開き、また口ごもる。 何度目かの再考の途中、それは唐突に遮られた。 「ここに」 そう呼ばれて、彼女の隣に立つ。先ほどまで彼女が見ていた風景に目を向ける。ただ、真っ暗な森の姿が続く。月もない。ただ星だけが己の存在を主張する世界。 彼女もまた、わたしと同じ方向を見て再度問いかける。 「後悔はないか?」 口の中で舌を転がす。しばらく目を閉じて、ようやく喉が動いて声が出る。 「何を、後悔するんですか? 生きるって、言ったことですか? ここでこうして、人間以外のモノとして生きていることですか? 今になって、あの時死んでいればよかったって、そう後悔しているかってことですか?」 「それが、答えか?」 「――少なくとも、今は後悔していません。後悔するには物事がまだあまりにもわかっていませんから。でも、わかったこともあります。時間は元に戻らない、だからもしもの話は面白いことだけど、それだけです。それがどんなに救いがあるものでも、そこに救いはありません。過去の仮定は、思うだけ。でも、未来の仮定は、思うだけじゃない。とても当たり前のことだけど――そう思えば、何も後悔することはないんだと思います。それに……したところで、あれは大きな波だった。わたしには、それを乗り切るだけの力がなかったんです」 ――あの時、夜の街に遠野くんをよく見かけると聞いて、それを確かめに行かなかったらこうはならなかったのかもしれないけど。 でも、もしあのとき行動せずに人間のままでいたら、もしも一人のクラスメイトとしてだけ接していたら、彼の本当に置かれている状況に全く関与することもなく、知り合いの一人として終わっていただけかもしれない。これをチャンスと見るのは虫のよすぎる考えだけど、力になれるかもしれない、それだけでも意味はあるんじゃないかと思う。 それに、それを差し引いてもこのことは後悔しても意味のないこと。後悔して、学んで、そこから違う答えを出すための後悔はそこにはない。あるのは不可逆の結果に拘泥するだけ。 本当は後悔すべきなのかもしれない。でも、今はできない。 「――違うな」 「えっ?」 「そなたは後悔することより逃げているだけだ。自覚はあろう? それはその場しのぎでしかないと」 「その場しのぎでも、それは……一つの答えです。だから……」 「まあ、よい」 そう言って彼女は振り返る。 「過去に束縛されるも一つ、未来に束縛されるも一つ。そして現在に束縛されるも然り。いついかなる時であれ、いかなる者であれ、それは例外なく在る。さて、そなたは未来に縛られることを選ぶか? それとも現在か? 過去を解くなれば、それらの何れかがそなたを縛るであろうことを忘れるな。縛られぬのであれば、それはそなたがそこに無い、と示すもの。無軌道に、無目的に在るだけならば、ただの獣の如く在れば何ものにも縛られまい」 「――アルトルージュさんは……」 わたしは訊くべきではない事を、訊かなければならない事を言おうとしているのかもしれない。 「何に、どれに縛られてるんですか?」 彼女はそれに対し、目を瞑り溜息をついて、唇の端をわずかに吊り上げる。わたしから見ても明らかにわかる自嘲の笑み。 ほんのしばしの沈黙を破り、吐息のような声を漏らす。 「さて、何であろうな。強いて申せば……そう、過去、現在、未来、それら全て、か。古き記憶を今なお呪い、今この時もまた呪い、予測されうる未来全てもまた呪う。果てることなき悔恨、慙愧、焦燥、恐怖、不安。それが、妾を縛る。――そうであろうな。妾のそれを、そなたも知らねばなるまいな。そなたが今これより何に対するのか、それを知らぬそなたに答えを迫るは暗愚であった」 息を切り、長い髪をさらりと流しながらこちらに振り向く。 黒い絹糸の様な髪が重厚にさらさら揺れる。 「――知りたいか?」 そう言って、わたしの目を覗き込んでくる。相変わらず彼女の話はよく、飛ぶ。自己完結が多いのだ。でも、それが独りよがりのものではなく、ただ無駄を省いているだけなのは彼女と接している内にわかってきた。 彼女は、わたしにあるものを示そうと言っている。わたしはここの城の人たちからある程度のことを聞かされているけど、それでも肝心なことを聞いていない。そして、その肝心なことは彼女を置いて他に知る人物はいないか、彼女以外の人物が言っても意味がないことかのどちらか、あるいはその両方。 彼女が示すというのなら、それはわたしにとっても大事なことなんだろう。仮にここで断っても、わたしはいつかそれを求めることになる。そう思われたから、わたしはこう答えた。 「――はい」 「そうか……では、ついて来るがよい」 言って、彼女は身を翻して歩き出した。わたしもその背を追う。背中の方から、朝日が昇ってくるのがわかる。もう夜明けだ。実際問題としてこのままここにはもういられない。彼女に続いて部屋に入り、扉を閉じる。 しばしの真闇。でも、それもすぐに破られる。アルトルージュさんがスタンドに明かりを灯す。一応電気も通ってるらしく、そのことをフィナさんに尋ねたときは苦笑で返された。便利な物は使って当たり前、簡単なことだった。 ふわり、とやや橙の明かりがわだかまる闇を退け、陰影を形作る。こうして見ると、やはりこの部屋に華美さはなく、ただしっとりとした品のよさがうかがえる。彼女の趣味なのだろう、十分な広さを余計な空間を生むことがないように配置された家具の数々。それらの数は決して多くはない。ただ、その一つ一つが己の存在を主張し、それぞれの空間の主として配置されている。そうでありながらも、それらは全く圧迫感を生み出すこともなく、ただこの部屋に落ち着きを醸し出している。 アルトルージュさんはその家具たちの一つ、大きなベッドの横にあるサイドテーブルについて、わたしを待っている。わたしがそこまで歩み寄り椅子につくよう言われるのを待っていると、アルトルージュさんは椅子ではなくベッドをに視線を向けわたしに“命令”する。 「そこに、座れ」 「え? で、でも……」 「……」 「あ、あの……」 わたしが戸惑っていると、彼女は待っていられないとでも言うように突然立ち上がり、わたしの肩に手をかけてそのまま引きずり倒す。そしてそのままベッドに乗り上がってくる。もうすでにシーツは乱れて座るの座らないのという問題ではなくなった。わたしが驚いて身動きをとれないまま真上にあるアルトルージュさんの顔を見る。 「な、何をす……ん、むっ!?」 口をふさがれる。次の瞬間唇を割って何かが入ってきてわたしの口腔内を舐っていく。彼女が片手で両の手首を抑えてしまっているため手で押しのけることはできない。もう片方の手はわたしの背中に回されていて、その手でわたしの頭を後ろから支えると同時に拘束している。 舌と舌が絡み合う水音が外にではなく、わたしの口の中から体を伝わって感じられる。彼女の舌先がわたしのそれの根元に伸びて突付き、巻き取り、絡め上げ、すり合わされる。わたしの舌もそれから逃れるように、それとも応えるように動き、結果絡み合う。 視界に入ってくるのはただ彼女の漆黒の髪、そして頬には彼女の穏やかな、普段よりもわずかに荒い呼吸の証。次第に目を閉じ、わたしもその行為に没頭していく、気がついたときにはわたしの舌が彼女の口腔に侵入し、またわたしも侵入を受け、蹂躙される。その繰り返し。ただ、絡み合う湿った音だけが空間を満たしていく。 それがしばらく続いて、意識が混濁し腕に力が入らなくなってきたころ、わたしの口は解放された。つう、と口と口の間を張る細い糸がてらてらと光を反射してなまめかしい。 「――あ……ア、アルトルージュさん?」 わたしはアルトルージュさんの顔を覗き込もうとして、今さっきまで彼女と何をしていたのか思い出してすぐさま目を逸らす。目を逸らしたまま決まり悪くつぶやく。 「その……あの……」 彼女は何も言わずに頭の後ろに回された手を背中を伝いながら下ろしていく。布越しなのに、その指の感覚に背骨に電気が走ったみたいに体が反応する。彼女の手は止まることなく、目的を果たした。 「……ふぅっ!?」 指がまさぐることもなくそこに触れてくる。次の瞬間また口がふさがれる。そして再び舌と舌とが絡み合う。 全身に体の底から波のように襲ってくる快感に背筋が伸び、弓なりになる。何が起こっているのかわかっているけど、わからない。 次の瞬間頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなった。 どれくらい続いただろうか? いつしかアルトルージュさんの束縛は解かれ、わたしもまた彼女にわたしがされていたことを見よう見まねで返している。 何度も何度も意識が飛んで、でも体力だけはお互い人間離れしているためただひたすらお互いをむさぼった。 もう何時間もこんなことが続いている。爛れた時間。うつろなわたしの目には、今は眼前のアルトルージュさんしか見えていない。夢中になって彼女を求めている。そして、彼女に求められる。 部屋の中には鼻にかかった声が――わたしが洩らした声が充満している。また、大きな波が押し寄せてくる。そして、また……。 余韻。 忘我の中でたゆたいながら、わたしは眠りについた。 |