闇月夜     12/朱い深月








 そこは、止まっていた。
 何もかもが、ここに存在する全てが息を潜め、凍り付いている。ただ、どこからか聞こえてくるように感じられる時計の振り子の音だけがわたしの耳をくすぐるだけ。
 そこは、在るだけだった。
 荒涼とした閉じられた世界の中で、わたしは自分が立っている場所を確認した。

 ここは、寒い。

 見たところ、ここは石造りの廊下。先は暗く、見通せない。まるでどこかへ吸い込まれてしまいそうな闇。どこまでもどこまでも。
 振り返っても見えるものは同じ。ただ続く石の床、壁、そして天井。壁にはところどころ窓があり、そこで外の景色が切り取られている。
 そこから見えるものは、どこまでも広がる森、山々の稜線、そして――

 血のように赤い、紅の月。
 ここは、そこに驚くほど、近い。
 朱い朱い真月。
 それを見た瞬間、心臓を掴まれたような感じがした。いや、“目”が合った。
 それは誰の目なのか。――いや、アレが目そのものなのか。
 誰かが、わたしを視た。

 どこまでも続くかと思われた廊下も予想に反して有限だったらしい。続く壁と扉、扉、扉。もうわかっている。こういった造りの建造物をわたしは一つ知っている。
 間違いない、ここもまた、何かの、誰かの城。
 その中を、歩く。

 しかし、これは一体どういうことだろう? アルトルージュさんの城は、確かに人ならぬ存在の城ではあった。でも、そこには確かに誰かの吐息、ありていに言えば生活感のようなものがあった。それがここにはない。
 いたるところに鎖が張り巡らされ、扉は錆びつき、風すらも畏れているよう。ふと顔を上げれば今にも崩れてしまいそうなほどくたびれた石壁。窓からのぞけば庭園は枯れはて、最後に手入れをされてどれほど経ったのかも計りしれない。

 ――重い。

 足音が床の上げる絶望の声音――孤独。
 扉を押し開けるたびに響く軋んだ音――拒絶。
 どこまでも続くのかと錯覚させる長い長い回廊――自縛。

 玉座への扉は、固く固く。強引に破ろうとしてもそれは可能かどうかすらもおぼつかないほど、固く重鎖の封印。
 そして、また歩き、ふとおかしな場所に窓を見つけた。何がおかしいのか、どうしてかそれは城の外ではなく、内に向いていた。
 それも、わたしの方向感覚が正しいのであれば、あそこから見えるのは多分――
 半ばそこに何が見えるのか予想をしつつ、覗き見る。

 ――!?

 そこに見えたものは、半分はわたしの予想通りのものだった。そして残りの半分は――
 体が動かない、目が離せない、思考が進まない、呼吸すらままならない。あれは……彼女は……。
 そこにあるのは玉座、そしておそらくはこの城の主と思われる女性が一人、誰もいないこの城に、誰も罰する者などいないはずなのに幾重にも頑丈な鎖でその身を縛り付けられていた。
 罪は重く、咎は重く。そう、まるでこの死んだ城こそが彼女を収容する巨大な牢獄。おそらく、ここに来るまでそこここで見た鎖は全てここに彼女を縛るために張り巡らされた縛め。この城自体が彼女の重し。

 そこでわたしはある事に気づく――なぜ、わたしはここにいるのだろうか? 記憶を探る。思い出して顔を赤らめる。わたしはそう、アルトルージュさんと……。
 ……そういえば彼女はここにいるのだろうか? わたしだけがここに来てしまったのか、それともここはただの夢の中でしかないのか。でも、こんな夢を見る心当たりはないし、そもそもここから見える彼女も見覚えなどない。ここは、わたしの夢の中じゃない。
「――ここも賑やかになったものだな」
 突然、後ろから声が聞こえてくる。慌てて振り向くと、そこにはまた信じられないモノを見てしまった。
「何を驚く、おぬし、アレが目的なのであろう?」
 彼女は泰然と続ける。その姿は玉座に封じられている彼女とまさに瓜二つ。いや、全く同じと言っていい。
 純白のドレスを着た。白く、あくまで白く、そして朱い女性。
「あなたは……?」
「この身か? この身はブリュンスタッドである。……ふむ、迷い込んだか人間? おぬしとこの身、アレとは縁などないはず、そもアレはおぬしと会った事すらない」
 そう言って彼女はわたしの顔を覗き込む。混乱する。このどこかで聞いたことがある口調、そして雰囲気。そして……。
「――ブリュンスタッド……」
 そう、口の中で呟く。そう、それは彼女の名前。ここに来るまで共にいた女性の名前。
「あなたが、ブリュンスタッド?」
「そうであると応えたはず。ほう、人間。おぬし、死徒であったか。――そうか、縁などないかと思ったが、なるほど、おぬしあの男の死徒か。かすかにアレの血の匂いもするな」
「……?」
「アレを解き放ちにでも来たか? あの男は諦めたが、もう一人は諦めなんだ。ただ迷い込んだと申すな。ここは本来おぬしの訪れる世界でない故、まかるところでもあるまい」
「――彼女は……?」
「アルクェイド・ブリュンスタッド、この身はアレの側面に過ぎぬ。だが、現として在るのもまたうつつ
「彼女が、アルクェイド……?」
 なぜ? わたしは彼女を知らない。そもそも目の前の彼女はわたしが迷い込んだ、と言った。なら、ここはどこ? いや、それよりも、彼女がアルクェイド・ブリュンスタッドなら、なぜあんな状態なのか。
 彼女は今、遠野くんと一緒にいるはず。何がなんだかわからない。
「それはつまり、あなたもアルクェイド・ブリュンスタッドってことですか?」
「あの男が申すにはこの身は可能性に過ぎぬ。そして、それが道理であるゆえに、ここにこの身は存在する」
 つまり、彼女も彼女であって、彼女の一つの人格ということだろうか。でも、それにしてもおかしい。
「――わたしは……一度あなたに会ってみたかった」
 それを聞いた彼女は感心したように、目を細める。
「この身に会うと? 勘違いをしておろう? この身はアレの側面ではあろうが、アレとは言えぬ。
 おぬしが求めていたのはアレと面する事であろう。なれば、これは徒労だ」
「え?」
「徒労と申した。アレが名を捨て、朱い月となるまでこの身はアレの悪夢に過ぎぬ。――話しすぎたな、先も申したが、ここは本来おぬしの在るべき場所ではない。ここは過去に過ぎないのだからな」
「じゃあ、彼女とは会えないんですか?」
「会いたければ現実で会うがよい。ここでアレを解き放つ事はおぬしにとってもおもしろくなかろう? ――去れ。そして、二度と来るでない。いづれ、また見える事もあるやもしれぬがな」

 そう言って、区切られた。
 これで、終わり。彼女との会話はこれにて終幕。ひとときの疎通。

「あの……」
「どうした?」
「どうやって帰れば……?」
「真に迷い込んだか――ならば……」
「……?」
「死ぬしかあるまいな」
 その瞬間、体が動かなくなる。絶対的な律令のようにわたしを縛る意思。これは、この感覚は知っている。
 ――これは、乾き。血への渇望。でも、これはわたしのじゃない……!
 目の前の彼女の、彼女の吸血衝動。喉がひりつく、かさかさになって蠕動ぜんどうする。
「ほう、やはりこの身の支配を受けるか。なるほど、確かにおぬしはアレの眷属だ」
 そして、彼女の瞳が一際輝く。
 目を閉じることもできずに、その金の瞳を覗き込み続ける。

「その必要はない」
 突然、最近聞きなれてきた声した。
「その者は妾がここに連れ込んだ。帰る術はある」
 わたしを束縛する意思が掻き消える。わたしは体の支配権を取り戻したものの、結果としては動くことができなかった。
「そうか、貴様か。貴様がアレに干渉していた故か」
 納得したように呟く、彼女――ブリュンスタッド。
「久しいな――いや、貴様はアレのブリュンスタッドであったか。妾にとっては実に八百年もの年月を経ての再会であるが……貴様にとってはこれは初対面か」
 そう、黒い吸血姫――アルトルージュ・ブリュンスタッドは返す。
「そうだ。だが、アレの知る貴様をこの身は知っている。この者をここに遣わし、何を企むか、不定の器?」
「不定は不適にあらず、また不足でもない。――この者が貴様を識るため。簡単な理由であろう?」
「ふむ、それだけの意義を視たか。まあ、よい。去れ、この期に及んで貴様と話すことなど、ない」
「であろうな。貴様の事は誰よりもこの妾が識っている。己が身にも、内在しているのだからな」
 そう言って、アルトルージュさんは硬直して動けないわたしの肩に手をかけ、耳元でこう囁いた。
「これが、朱い月だ」
 そうして、わたし達の体が透きとおっていく。次第に輪郭を失い、視界も不確かになっていく。その最中、呟きが聞こえる。
「まったく、騒がしいことだな。二度と来るなと申し渡したものを」
 彼女――ブリュンスタッドの姿も不明瞭になっていくなか、彼女は確かにこう言った。
「おぬしもあの人間のようにアレを、あの爆鎖に囚われたままのアルクェイド・ブリュンスタッドを救うと申すか?」

 遠くから一人分の足音。薄れいく視界の中でその主が姿を現すのに先んじて現れた、黒いコートを着た一人の少女と目が合った気がした。