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闇月夜     14/紅い園生








「――また」
 そう呟いて目をそむける。正視に耐えない。
 何度見ても慣れるものじゃない。ここに来てまだ丸一日程度しか経っていないにも関わらず、このような光景はもう二十四回、都合一時間に一回は目にしている。今のわたしの脚力ならあまり速度を出しているつもりは無いにしても既に百キロは歩いているはずだ。本来なら百キロ程度ならこんなにも時間がかかるものではないだろうけど、ここはひどく足場が悪い上に色々とそれを妨げるものがある。
 ここは薄暗い。微かに足元を照らす光は皆赤黒く、明滅する血の色の明かり。その様はまるで脈動するかのよう。その赤光はまるで、そうまるで動物の心臓から送られた血液が血管という血管の中を流れていくかのようで、さながら胃袋の中に取り込まれたと形容できるような光景を生み出している。
 木々の一本一本が繊毛のように蠢き、自身の体内に入ってきた異物であり食物であるそれをさすり、縛り、導き、そして食べる。そういう意味ではここはまさに胃袋、消化器官だ。
 ――ああ、なんて気味が悪いんだろう――この森は――





 つまりはこういうことだった。
 アルトルージュさんがわたしに課した仕事は、あの時わたしが食べた実と同じものを採ってくること。
 幸か不幸か、あの果実は五十年に一度しか結ばないけど、ちょうど今がその採集期らしい。そんな貴重なものをもらったって事を知って眩暈を覚えたのは無理もない、と後で他の人からフォローが入ったけど、わたしは申し訳なくてその申し出を深くも考えもせずに受けた。
 多分、アルトルージュさんもわたしが受けることをほぼ確信して切り出したのだろう。その後、物置と言うにはあまりにもそこにあるものが貴重すぎる、言わば宝物庫のような部屋に連れて行かれた。
 そして、普段はこの仕事はフィナさんとリィゾさんが代わる代わるしていたらしいので、二人からこの森に関してある程度の知識をもらった上で臨んだのだ。
 そう、“森”と聞いていた。“森”? これが森? とんでもない、本当にとんでもない。この森は決して森なんかじゃない。と、知識だけでも頭に入れていたはずなのに。
 こんな森が存在すること自体が馬鹿げている。これが森と呼べるのなら、森でない森などこの世界に存在しうるのだろうか?
 ああ、いや。存在しているのだから存在している事をいまさら否定してもどうしようもないし、そんなことに意味を求めてもそれこそどうしようもない。現にわたしはここにいるのだから。この冗談のような世界に、既に呑み込まれているのだから。
 それに、この“森”だって――





 それでもわたしの認識は甘かった、としか言えない。
 ここをして 地獄と呼ばなかったら、一体どこを地獄と呼べばいいのだろう。地獄だ。ここもまた一つの救いようもなく、どうしようもない地獄としか思えない。うねるような血の香り、そこかしこから這い出てくる魔性の芳香。絡みつくような瘴気。今にも生命のはじける音が幻聴できそうなほどの狂った大気。
 緑と呼ぶにはあまりにも毒々しすぎる赤光をぼんやりと周期的に発散する下草や、木々の幹、そしてそこから張り出された枝という枝。さらにはその枝々から広がる葉の一枚一枚からまでこの世界のものではないような――だから地獄。
 その、この森を構成するもの全てはみずみずしく、それらを潤す液体は命の雫であることが窺える。

 単純な現実だけを述べるのならば、この“森”は血を吸う植物による群体で構成された一個の世界だ。
 今、わたしの目の前に広がる風景。この森に入ってから何度目かになるその凄惨な情景。森でありながらさながら捕食動物のように森全体が内部に入り込んだ、内部に存在する全ての異物に対し牙を向く。
 枝が伸び、胸を貫く。根が伸び上がり、股間を貫き脳天から天を突く。葉は一枚一枚が鋭利な刃となってすれ違うものを切り裂くだけでなく、意思を持ったかのように乱れ踊る。蔓が延び、首、胴、腕、脚、体のありとあらゆる所に纏わりつき、窒息どころか圧死すらさせる。
 そんな馬鹿げた世界。
 そして、そうして生まれた死体には一滴の体液も残らない。全て“森”が吸い出してしまう。だから、わたしの目の前の彼らはまるでミイラ。からからにからからになったからからの抜け殻ばかり。
 さら
 さらさら
 さらさらさら
 さらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさら……。
 木々の間を駆け抜ける風にさらわれ、少しずつ彼らは消えていく。最後の一欠けが塵と化して風に舞った後そこにあるのは、本当にこの森の規模からすれば猫の額ほどもないこじんまりとした土地が開けているだけ。
 ただ、その程度。彼らはこれだけの木々を焼き払って、そして死んだ。ただ、それだけ。それが彼らの全力だった。
 彼らは皆、動き易そうな戦闘服を着て様々な武装をしていた。あらゆる魔術、科学の粋を集めた兵器を駆使し、わずかに森を退けただけの彼らの死に顔はもう窺えない。彼らの胸には銀製の十字架のペンダントが輝くのみ、おそらく教会が送り込んだエクソシストなのだろう。でも、悪魔祓いの術をどれほど持っていようとこの“森”には意味はない。この森“シュヴァルツヴァルトの魔物”は悪魔ではないのだから。
 この“森”の発生に人の想念なんて、一切合財これっぽっちも根を掘っても葉を掘っても小指の先ほども関与してないのだから。
 死んでいった人たちに反してわたしは実に軽装だ。
 ここにきて以前の疑問は解消された。先日街に下りたとき動きやすい服を選ぶように言われたけど、要するに最初からこうなる予定だったらしい。その時選んだのはストライプの薄手のトレーナーにノースリーブのジーンズのジャケット。それと動きやすさを重視したキュロットパンツと足を草から守るためのニーソックスにスニーカーだった。まるでハイキングに行くみたい、とその時言ったのだけど、なるほど、ハイキングだ。
 これほど趣味の悪いハイキングなんて後にも先にも、できればこれっきりにしたい。





 そうして“森”の中を彷徨ってどれほど経っただろうか。考え事をしながら茫々と目的の中心部に向かい歩いているだけのわたしの感覚はもはや当てにならない。一時間のようにも感じられるし、一ヶ月間ずっと歩いているような気にもさせられる。それともそれがこの世界の特殊性の一つなのかもしれない。まるで催眠術のような――
 そんなことを考えているときだった。慎重に獣道を掻き分けているわたしの耳に微かな、そして明らかに何らかの音が届いた。立ち止まり、耳をすませてみると――がさり、と音がした。
 その方向へと目を向ける。繁みの隙間一つ一つに目を凝らしてみると人が一人倒れていた。さらに驚いたことにその人にはまだ息があった。この人間はまだ生きていた。生命活動が極端に低下したのか、させたのか。軽甲冑を身にまとう彼は文字通り息も絶え絶えになりながら、木々が退けられた一角まで這い出ようとしている。
 あわてて駆け寄り、抱えて彼が目指すところまで連れて行く。どうやらわたしの存在にも気がつかなかったようで、虚ろな意識でありながらもひどく驚いているようだった。でも、その瞳に手放しの感謝を見る事はできなかった。その目は知っている、その目は――
 疑念。彼はこのような状況であっても警戒を忘れていない。生粋の戦士だということだろう。その彼もまたこの森に敗れたのだ。
「――ああ、感謝します……」
 掠れる声でそう言った。幸いなことにそれは英語で、わたしにもかろうじて聞き取ることができた。
「大丈夫ですか?」
 彼はその腕をゆるゆると自分の胸に当て、そこに揺れる十字架を握る。
「主よ。ああ……、父よ、父よ。貴方の底無き慈悲に感謝を、尽きぬ慈悲にひざまずけぬこの身をお赦しください」
 何かが来る。そうぴりぴりとした何かを感じて視線を落とす。
「感謝を、感謝を、この愚昧なる子羊に、最後の殉する機会をお与えたもうた慈悲を」
 その瞬間、わたしは飛びのいた。それと同時に彼の手には拳銃が握られ、それの引き金が引かれる直前、大地の底から何かが彼の胸を貫いた。
 そのショックで痙攣した指が引き絞られる。弾道が視える。それは見当違いの方向に飛んで行き、一本の木の幹を貫いた。その直後その木は突如として広がった爆炎に飲まれ、一瞬で灰となった。
 振り返れば、そこに彼は亡く、ただ体中から全ての水分を吸い尽くされた残りかすが残るのみ。それも風と共に舞い散っていく。
 ――これが現実。
 ――これが、この腑海林の世界。





 かつて、アインナッシュという死徒がいた。
 その死徒は数多いる死徒の中でもとりわけ古く、最古参とされるほどの強大な死徒だった。しかしその栄華も果て、配下の死徒たちもろとも滅ぼされた。
 そうして滅んだアインナッシュの死体はその場に放置され、偶然にもその流れ出る血を吸ってしまった吸血植物が幻想種と化し、周りに存在する全ての同属を自らの眷属となし異界を生み出した。それが真相。この“森”の真の姿。
 しかし世の中とは皮肉なもので、この事実は知られずアインナッシュは未だ存在し、この森の中心部にある玉座についているなどというまことしやかな噂まで流れているらしい。
 このことはアルトルージュさんから聞かされた。世界でこの事実を知るのはごくわずか、アルトルージュさん本人とフィナさんやリィゾさん、プライミッツ・マーダーといった上部の人とわずかな側近だけ。そして、彼女達にこのことを伝えたお爺さんと――
 ――かつて、アインナッシュを滅ぼした人物その人のみ。
 それを聞いたとき、わたしはどのような顔をすればいいのかわからなかった。どうして世界はこうも巧妙にできているのだろう。どうしてこんなにも世界と歴史は狭いのだろう。わたしが考えもつかないような大昔。時間のもっと向こう側。そんな遠いところの出来事のはずなのにその実それはわたしからほんの少ししか離れていない上、今こうして触れている。
 そう、かつて最古参の死徒にして死徒二十七祖第七位、記憶解退ヒュプノスアインナッシュを滅ぼした人物の名は、アルクェイド・ブリュンスタッド。
 わたしの、祖に当たる人だった。





 また新しく生まれた死体を後にし、牙を剥く木々や下草から身をかわしながら森の中を進んでいく。研ぎ澄まされた聴覚には、時折遠くからかすかに悲鳴が飛び込んでくる。それは全て、断末魔。末期の怨嗟。不条理を受け入れるための開門の呪。そんな引きつった声が連奏するかのように次に次にと連ね、拡がっていく。
 もう世界のどこにも存在しないアインナッシュを求めて入り込んできた様々な勢力の精鋭たち。彼らは一人、また一人と“森”に喰われ、死んでいく。なかには他の勢力と遭遇し、戦闘の末一方が敗れる場合も、第三者の手により両者が共に力尽きる場合もあるだろう。そんな混沌とした地獄だ。全く全く意味が見出せない、本当に本当に道化た地獄だ。
 この森から生きて帰った人間の記録はない。それでも彼らは踏み込む。アインナッシュと接触するため、そして――

 ――この森にただ一つ結実するとされる果実。

 それが彼らの一つ目的。ただ一つの意味ある目的。そしてわたしの目的でもある。そう言われたときにもう一つ、言われたことがある。
 それは――
 わたしがここでするべき事は――





「あら、こんばんは」
 相変わらず彷徨っているわたしの目の前に突然人が現れた。
「あ、その、こちらこそ」
 この異常な世界にあって、拍子抜けするほど日常的な挨拶を交わしてしまう。しかも日本語で。いや、そもそも目の前の人物が近づいてくるときに聞こえるはずの音が捉えられなかった。自分の聴覚に絶対の自信を持っているわけじゃない。でも神経を張り巡らせていたのは事実。どこから襲撃があっても即座に対応できるようにだ。
 それなのに彼の接近を許してしまったらしい。ああつまりこの人は――危険だ。なぜかそんな感じがする。これでも直観力には自信がある方だ。なら、きっと何かがある。
 ゆっくりと観察してみる。筋肉質で引き締まった体に短く刈り込んだ髪。口元には形が整えられた髭を生やし、唇は分厚い。肌は浅黒く、顔の形はやや角ばっているだろうか。少し垂れ下がった両の目がどことなく落ち着いた雰囲気を漂わせている。服はこの森にあって非常識なほど軽装。実にノースリーブの薄い黄色のシャツと、白のスラックス程度だ。森の中を歩く格好ではない。
 もっとも、この森で見たものに比べればわたしも十分に軽装なのだけど。
 あちらもわたしを観察していたようで、ひとしきりなにやら納得していた。こう、じろじろ観察されるのはあまりいい気がしない。でもそれはお互い様。
 わたしも気づいたことがある。この人の目は赤い。わたしと同じ色。つまり、この人も死徒だ。もしかしたらそれ以外の何かかもしれないけど。
「あの、どちらさまで?」
 問いかけは我ながら間抜けなものだった。ほんと間が抜けてるって言うよりも能天気極まりないと評するべきだろう。だから言ってしまった後、思わず眉をひそめる。他に言い方があるだろうに、これではただの年中お天気娘みたい。
 ところが彼はそれを聞いて、にい、と唇を吊り上げて何か面白い物を見つけたかのように笑った後、胸に手を当て高らかに宣言する。
「あたしはカリー。カリー・ド・マルシェよ」