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闇月夜     17/血(――四季)








 ――相手を舐めていたのは自分の方だったらしい。
 カリーがそう思うようになるまで、あまり時間はかからなかった。
 森は深く、死は浅い。うねるように文字通り野放図に立ち並ぶ血色の木々。本来緑に輝く苔、繁みすら紅い。うっそうと茂る死色の赤針。人間にしてみればそれら全てが必死の欠片。足首を覆おう草々の葉一枚一枚が刃物のように衣服、皮膚を切り裂く。それだけではない。唸りと死の賛歌を紡ぐのは森のみではない。
 ――紙一重で死を謳う細腕を避ける。余裕があってのものではなく、限界の行動。本当に紙一重で首の皮一枚で踏みとどまっているようなものだ。それも少しずつ追いつかなくなっては皮を裂かれる。隙をさらけ出す覚悟を決めて、木に触れそれを変質させて足止めをする。そしてまた追いつかれる。その繰り返し。
 今もまた左腕上腕部をわずかに削り取られた。槍のような刺突が木の葉を散らし、大気を巻き込みながら伸び貫いてくる。長く伸びた爪はまさに魔剣、魔槍の類のようだ。一撃一撃が壁のような死を叩き付けてくる。あと一歩、あと一足のところで踏みとどまり、遁走する。流れ出す血と力を無視し、右手を地面に一瞬触れさせ跳躍する。木立の中を飛ぶカリーを追おうとセンティフォリアもまた身を屈め飛び上がろうとしたが、その時に合わせたように大地は途端に軟化して彼女の足を足首まで深く飲み込む。そのため十分な跳躍を行えず、結果カリーはまた幾ばくかの距離を稼いだ。だがそれもほどなくして無に帰すだろう。
 見誤っていたのは何も追跡者の実力だけではなかった。自分自身のそれもまた認識できていなかったことを自覚した。決して慢心していたわけではない。しかし血を吸うことに苦痛を覚えるようになってから今に至るまで低下し続けた力、それをこの機会にあわせて幾分か取り戻したもののかつてのものと比べてみても、どうやら相当に見劣りするものだったらしい。同域程度にはなっているつもりだったが、ここしばらくの力を失った期間が長すぎたためか感覚的にどの程度まで力が回復していたのか分かっていなかったのだ。今の最高と過去の最高、それらは同時にそれぞれ最高で、今の自分には同様に最高・・でしかない。なまじ中途半端に力を付けたため分かろうはずもない。だが現実として彼は己の力量を見誤った。
 それにしても、少し妙だ。今までならもう既に追いつかれつつあり、再び相手の虚を突いて時間を稼ごうとしているはずなのに肝心の彼女の姿がない。どうしたことだろうか? しかしその疑問も次の瞬間解消された。
 目の前にアッシュブロンドが流れる。赤を照り返して赤銅色に輝く灰銀色の本流がすでにカリーを回り込んでいた。相手の方も追い詰めても追い詰めてもあらゆる手段を講じ、手の間を潜り抜けていくカリーに痺れを切らしていたのだろう。必殺の一撃一撃をことごとく掻い潜るカリーの巧みさ、死を死とせずに泥まみれ血まみれになっても生きぬくしぶとさ。カリー・ド・マルシェの優秀性があってこそ為しえる至技。だがいつまでもそれにつきあってもいられない。必殺の一撃、不足であるのならばもう一つ手の込んだことをせねばなるまいと、一気に事態に終止符を打つため大胆な行動に出たのだ。
 喉が鳴る、唾を飲む。目の前の存在から逃れる術はあるだろうか? そう必死に考える。彼は決して状況に屈するつもりはない。死のその瞬間まで機を窺い続ける。だからこそ今もこうして生きているのだ。
 そして、その状況に改めて愕然とする。この自分が、カリー・ド・マルシェがたかが侍女風情にここまで追い詰められるとは。いつだったか、知人と会った際こう言った――“埋葬機関なんてメじゃない。二十七祖へだって辿りついてみせる”――と。なんと愚かで身をわきまえない発言であっただろう。目の前の、今にもカリーの首を落とそうとしてる死徒は、その二十七祖に仕える侍女に過ぎない。実感した。自分は祖どころかその侍女にすら劣る、それほどの脆弱な存在だということに。
 侍女である、騎士でも兵でもない。彼女達の本来果たすべき役割は死徒の姫の身の回りの雑事と城の管理。たとえ彼女達の中には下手な死徒よりも強力な者もいて、目の前の彼女もまたそういった死徒の一人だと分かっていたとしても、ただそれだけで彼を打ちのめすには十分だった。
 だが、だからといってカリーは唯々諾々と命を差し出すつもりも毛頭ない。ここで生き残ればいつかは辿りついてみせる。今はまだ時が満ちていないだけ。対峙する侍女もいずれ超えてみせよう。何事にも順序というものはある。そのためにもここで死ぬわけにはいかない。至高の味を生み出す――二十七祖に辿りつく事と同じくらい大切な目的もあるのだ。
 結果としてだが、このことはカリーの向上心を刺激するものとなる。おおよそほとんどの死徒は祖を目指す。それは必ずしも君臨するためでも、名声のためでもない。力を求める理由等誰にも彼にも普遍ではない。今となっては一つの指標、到達点としての具体名が祖であるに過ぎない。霞むような目標と明確な目標、そのどちらがより挑戦者を奮い立たせるのかというと決して断ずることはできないが、それでも一つの到達段階が目前に示されれば俄然上昇志向は方向性を与えれらる。
 カリーの決意とは関わらず、追跡者――センティフォリアの右手が上がる。振り上げられた手が指揮を取ったかのように突然、どこからかナニカが振動する音が、不意に指揮者に応えるように起き上がり、鳴り響く。それもその音量が尋常ではない。まるで羽虫の大群が一斉に羽を打ち鳴らしているようなけたたましい振動音。
 細、と木が砕け散る。彼女の周りの全てが一瞬にして細片を通り越し、塵よりも小さな粒となって空に舞う。その領域も次第に広がり、今はもう直径にして四メートルほど。彼女が腕を振るうとその世界も位置を変え、また木々や草々が粉と散る。一瞬だけ周囲が粉末に満ち、わずか一メートル先すらも見えないほどの木片の霧が視界を覆う。
 危険だ。これは、危険だ。脳裏に固有結界リアリティ・マーブルという名が浮かぶ。規模こそ小さいが、そもそもこのアインナッシュの森の中、他者の固有結界の内部で自分の世界を構築するだけでも想像の埒外だ。
 そして、これが――実力差。世の魔術師達が知ったらどのような顔をするだろう? たとえ回路に優れていても、人間であれば己の魔力だけでこれほどの式を起動できる者は稀。それこそ一流のさらにはるか上をいく最上級の魔術師ぐらいだ。仮に回路に恵まれずとも死徒化した際にある程度回路も増強される例もある。一度死んで別の生き物に生まれ変わるのだ。もちろん逆に回路が減る、閉じるなどの例も極稀に見られる。だから当然元々優れていた者の回路がやや増えることもあれば、あまり優れていなかった者の回路が格段に増えることもある。目の前の死徒がそのどちらかであったのか、それとも優れていた上でさらに大幅に成長したものかは定かではないが、それは今やさしたる問題ではない。自分は今現在死にさらされているのだから。
 否。前提から間違っている。これはそもそも魔術なのか。固有結界という魔術は存在するが、それは突き詰めれば二次的なものに過ぎない。本来固有結界というものは使用者の心象世界を外世界へと侵食させる異界を指す。魔術ではないのだ。固有結界という現象をなんとか系統立てて技術体系に組み込もうとした、その果てが大禁呪とまでされる式。そういった魔術を補助具――デバイスとして起動された固有結界は術者の技量にもよるが、本来のモノに比べれば情けないほど脆い。本物の固有結界、悪魔の魔界とて全てが全て強固ではないが、そもそもの心象の変換効率が違うのだ。そして強力な死徒の中にはまさに悪魔の如く、魔術の助けを必要とせずに己の世界を押し出せる者もいる。元から適正があった者もいれば、辛苦の果てに至る者も少なくない。
 目の前に姿を表した異界。その発現に鍵となる言葉はあっただろうか? 少なくともカリーは耳にしていない。となればおそらくこれは魔術ではなく、本当の元来の原初の意味での魔界に違いない。
“蟲”が近づいてくる。あの世界に取り込まれれば瞬く間に粉々に分解される――どころか、塵すら残りはしないだろう。数百の舞い踊る不可視の刃の花弁の嵐。なるほど、故にこそ“百の花弁センティフォリア”。数百の姿無き蟲達を手足のように操り、己が世界に入り込んだ者を切り刻む、故にこそ“蟲繰”。これが彼女の名の由来か。まさしく指揮者、ただしく狂奏。無慈悲な指揮者が指揮棒タクトを振るえば、たちまちの内に従順な演奏者達は己が楽器をかき鳴らす。
 もう一つ、固有結界には大きく分けて二つの傾向がある。一つはすなわち文字通りの異界。現実世界とまったく違う世界律が支配する、作成者の心象を強く示す世界。特徴としては風景そのものからガラリと塗り変えてしまうのだ。そしてもう一つ、こちらは本来の意味からすれば不完全なもので、現実世界に特定の方向性を与える。大掛かりな改変を行わないため修正力も比較的弱く、維持に関しては優秀であると言える。これらは両極端なものであって、現実に行使されるものはそのどちらにより傾いているのか、といった程度である。
 ならば今カリーの前に広がる世界はどちらだろうか。無論、後者であろう。風景も空気も変わらない、だた内部にいる異物を全て削り抉り擦り滅ぼす意味を持った限定空間だ。この手合いはやっかいで、世界に取り込まれた時点で致死的。境界の外から手を打たないと、ひたすら逃げに徹する以外ほとんど手段が存在しない。
 だが生き残る術はある。どれだけ時間を稼げるか、いくら強力であろうと祖のように数時間もこれほどの異界を維持できるはずもない上、ここはアインナッシュの世界だ。その限界もそう遠くないだろう。条件の悪さから長く見積もって、二十分。問題はそれだけの時間逃げ切れるかどうかだ。たった二十分。数百年の時を生きる死徒ではなくともその時間はとても短い、しかしそれがカリーの全てを分かつ境界線。問題は、そう問題はこの異界、極めて異常性が低いのだ。世界そのものを書き換えてしまう大掛かりな異界はそれだけで強力だが、反面修正力もまた大きい。ところがこの結界の規模は小さい。消耗を抑えるために広域展開できないのか、もとからそういったものなのかは分からない。分からないがこの手の固有結界は持続時間を稼げる。なにせ世界を塗りつぶすのではなく、世界に限定的にほんの少し必要な要素を書き加えただけの簡易的とも言える異界だ。そう考えると二十分どころではすまないかもしれない。最悪夜が明けるまで持続させえる可能性もある。極小で極大の成果を上げる、非常に効率のいい技術だ。
 だが感心している場合ではない。このままでは一晩どころか一瞬で削り殺されてしまうのだから。
 ――さあ、どうする?

 ベルトに吊っている短剣を抜こうとした時だった。
「お待ちなさい」
 突然、穏やかな声が響いた。この羽音の奔流にありながらその静やかな声は不思議と二人の耳に届いた。しかしその声を聞いた二人の対応はまるで異なる。
 センティフォリアは身を強張らせる。一体何者にここまで接近を許したのか。他にもいるのか。なによりさつきは無事なのか。
 逆にカリーの方もまたなんとも形容のし難い表情を見せている。安心したように、苦虫を噛み潰したようにも、みっともないところを見られた上、そもそもの発端は自分の独断専行にあることを思い出した顔である。
 次いで法衣姿の神父が現れる。ちょうどカリーとセンティフォリアを一辺とした正三角形のもう一つの頂点となる位置に、灰塵と帰した木々の砂の中にうっそりと男はどこからともなく現れた。彼は一息置いてこう告げた。
「もう一度言いましょう。固有結界を収めなさい。拒否するのであれば、貴方がた二人ともこの場で殺しますよ」
 まるで王の号令、絶対の律令。それは言葉だけであるにも関わらず、抗いようのない強制力を持っているようにカリーには感じられた。現に目の前のセンティフォリアからは研ぎ澄まされた敵意は霧散し、“蟲”の気配ももうない。先ほどまでの轟音とうって変わって静寂が支配する。耳が痛いと錯覚するほどだ。
 彼女とて分かっている。“彼には敵わない”ということが。絶対的なほど、それほどの開きがある、故に祖は君臨する。
「……いいでしょう。まったく、固有結界まで持ち出して何をしようというのです。大方カリーが余計なことを言って貴方を挑発したといったところでしょうが、そのような安いものに乗せられるようではたかが知れますよ。貴方のみならず、貴方の主人の品位をも落としめるつもりですか」
 聞き捨てならないとばかりにカリーは投げやりな抗議の声を上げる。
「ちょっとメレム。それはないんじゃないの? それじゃあたしがまるでつまらないような言い方じゃないの」
 それに対しメレムは冷静に、それ以上に冷ややかに返す。
「なら言ってあげましょう。カリー、貴方が勝手に死ぬことはさして問題ではありません。が、彼女達にあまりよくない心象を与えてしまうようであれば、それより先に私が貴方を処分しますよ」
 それを聞いたカリーは大仰に肩をすくめる。見咎めたメレムが続ける。
「そもそも、貴方に力を与えたのはこのようなことをさせるためではない。分かっているはず」
「何がよ、人が寝ているところに忍び込んで口の中にあなたの血を叩き込んでくれたのはそっちじゃない。おかげで三日も口直しが必要だったんだからね」
「三日三晩カレーを食べ続ける貴方の姿には、この私ですら戦慄を禁じえませんでしたよ。……まったく、そのような状態だから私が一肌脱いでやったのだからね。私の眷属になれただけでも感謝しなさい」
「この際だから言っとくわ。余計なお世話、あのまま死んでたらどうするつもりよ?」
「どうもしませんよ。あの程度で死ぬようなら貴方は我々には必要ありません」
 この場においてどうしてこのような間の抜けた会話をせねばならないのだと神父は切り捨てる。
「――それと、彼女も困っているようですし話を進めましょうか」
 そう言って、センティフォリアを正面から見る。今まで殺し殺される気配を漂わせていながらこのような馬鹿話につき合わされる姿は哀れと苦笑を誘うが、いつまでもこうしていてはそれこそ愚昧だ。穏やかに、そして鋭く簡潔に核心のみ尋ねる。
「さて、貴方は誰と、そして何故この森に入ったのでしょうか? 先の少女は別として、いやだからこそ貴方が単独で行動しているとは考え難い。ましてや彼女は貴方の存在に気づいていない。しかし彼女がただ一人でこの森に挑む理由は不明瞭。そして彼女に害なす者を気取られないよう始末する貴方。一人ではないでしょう? まさかアルトルージュ・ブリュンスタッドが直々にこのようなところに出張ってきているとは露にも思いません。では二人の騎士のどちらか、さもなくば貴方が来ているとすればあの銀環アリアンロッド。まあ、そうでなくともよろしい。要は貴方をしてこのような役回りをさせる監督者がいるはずです。一応それにも見当はついていますが、確認を取っておいて損はありませんしね」
 センティフォリアは今まで一言も発せず沈黙を守っていたが、目を伏せたままようよう口を開く。諦めと計算。ここで抵抗しても全くもって意味がない。それどころか無駄死にだ。
「……こちらへ」
 そして、彼女はメレムとカリーを伴い、腑海林の臓腑を蹴りぬき駆けはじめた。





 もう一度、森の中を駆け回る。もう一度、彼女の姿を見つけるために。そう簡単に見つかるとは思えない。二度同じ轍を踏むほど迂闊でもないだろうし。
 でもそれももうお終い。今わたしの視線は探している人物の姿を捕らえている。あちらももう気づいたみたい。木々を踏み抜き、一足飛びに迫る。でも彼女の方もわたしがそうすることを知って、また姿を隠そうとする。ダメ。直接言わないと。だから待って。逃げないで。
 逃がさない、と思ったからだろうか。次の一瞬、彼女の服にこびりついていたわたしの血――なぜか灰にならずに彼女の服を濡らしていた――がそれ独自の命を持ったみたいに形を変え、姿を変え、伸び、彼女の体を地面に縛り付ける。そうなれば機動力は奪ったも同然だ。わたしはすぐにそこに追いついた。……どうしてだろう。血が、わたしの要求に応えるかのように変化した。……なぜだろう。それがわたしには当たり前のように感じられた。現に無意識にできたのだから。血が動く。当たり前のことじゃないのに、わたしには当たり前のことなのかな。そんなこと、知らないのに。
 わたしの血に束縛された人は遠目で見た通り黒のぴっちりとしたポケットの多い、いかにも戦闘服って感じの服を着ている。予想外の方向から攻撃を受けて地面に倒れ伏しながらも、その手に握られた三つ穴の開いた剣を手放そうとはしていない。でも、彼女の顔には諦めの色が見て取れる。わたしに殺されると思っているのかな。それなら余計なちょっかいを出さなければ良かったのに。薮蛇。わたしが、蛇。蛇? よく見れば、わたしの血はまるで蛇のよう。彼女の体にぐるぐると巻きついて締め上げている。大蛇が獲物を殺す光景に似ている。このままほっておいたら、この人死ぬのかな。
 でもわたしの目的はこの人を殺すつもりはない。だから、たどたどしい英語だけど、通じるかどうかもわからないけど、言わなくちゃいけない。
あの、その……。Well, amm. この森から……できるだけ、離れてください。I suggest you to get out from this...this forest as far as possible. たぶん……So I suppose...
 舌をもつれさせながら自信のない英語でなんとか伝えようとする。変なことを言ってしまって、誤解されたら困るからできるだけ丁寧に、ゆっくり発音した。
――名前を、聞かせて欲しい...I want you tell your name
 しどろもどろで伝えようとしていたら、なんだかよくわからない、よく聞き取れない言葉を差し挟まれた。驚いて意味のない音が口からこぼれる。
「え?」
 突然の質問に思わず意味を成さない答え。彼女は再度尋ねてきた。
名前、だYour name
 今度はゆっくりと丁寧に発音してくれたのでわたしにもしっかりとわかった。
「さつき、弓塚 さつき」
 そうとっさに応えて、手を離した。わたしが彼女を拘束する意志をなくしたと同時に、わたしの血もまたその形を失って地面に流れ落ちた。
いいでしょう、サツキ。OK, Satsuki. 確かに、あたなの助言に従った方がよさそうだSurely, it seems suitable to obey your advice
 そして彼女は立ち上がり、わたしに背を向けて去っていく。どうしてわたしに攻撃を加えてきたのか、それはわからないけどもうそれもないだろう。彼女は確かにわたしの言葉を聞き入れてくれたはずだし。
 後姿はもう見えなくなった。そのとき、わたしの頭の中に一つの考えが浮かび上がった。試してみてもいいかもしれない。
 さっきまであの人がいたところに、まだわたしの血溜りがある。それに視線を向けて、意思を傾ける。するとそれはまるで生きているようにうねり、わたしの右手に集まってきた。そして長く伸び、わずか数回の瞬きのうちにそれは一振りのやや反りのある刀のようになった。血でできた刀だ。少し周りを見回して、たくさん生えている木の中で一番大きな一本に白羽の矢を立て、それに手に持った血の刀を突き立ててから血の形を解く。するとその木は驚くほどすばやく――血が流れ落ちる暇もないほどすばやく、そのわたしの血を吸収してしまった。
 ここまでは予想通り。問題は次。
 木が暴れる、まるで体内に入った毒に苦しむかのよう。でも、それがただの毒で終わるのか、それとも違うモノになるのかはまだわからない。ただ、見ているだけ。
 しばらくして木は狂ったような踊りに幕を下ろした。今は静かにただ在るだけ。そしてわたしはその木に命令・・した。
 わたしの血を吸った一本の木は、周りにある全ての同族に牙を剥いた。

 視界の端にきらり、と何かが光って見えた。拾ってみると、『Forte』と刻まれた小さな金属片だった。