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闇月夜     18/枯渇








「やあ、お帰り」
 彼女が客人と共に戻ってきたことを確認した騎士は、そう言った。





 昔話を聞き終えて、メレム・ソロモンは呟く。
「なるほど、人が悪い」
「人が悪いとは心外だな。僕達がこの情報を独占していたことがそんなに不満かい?」
「不満と言うよりは残念ですね」
 神父はつまらなさそうに眉を曲げる。
「つまりはこういうことですか。『アインナッシュと呼称される死徒は既に八百年前に滅び、実のところ七位は空位であり続けた。』我々が七位として扱ってきた存在はただひたすら巨大な吸血植物の群れに過ぎなかった、と」
 それを聞いたフィナはしかしながら首を横に振る。
「私達は貴方達の狂言に踊らされたようなものです。いや、ここは好意的にサプライズパーティとでも受け取っておきますよ」
 神父の呆れた振る舞いに肩をすくめ、苦笑混じりの微笑を浮かべる。それから対面に座る神父に飲みものを勧めたが、すげなく断られあっさりと引いた。
「いや、確かに彼の魔術師は存在しなかったよ。彼女に処断されてもなお蘇り、姿を隠し血を啜ってきた吸血鬼は幻だった。――けれどね、現にこの数百年吸血行為を繰り返してきたこの森が不足かと言えば……そうでもないだろう?」
「……そのような些末なことを論じるつもりはありません。腑海林が祖に数えられれていたこと自体はどうでもよろしい。図らずも、これもまた『彼』が望んだ形の一つといったところでしょうか。だからいいのですよ。現として死徒二十七祖、腑海林アインナッシュはこうして今も存在しているのですから」
 対して、向かい合って座するフィナ・ヴラド=スヴェルテンはくつくつと笑い、再度問う。
 可笑しくてたまらない。相手が何を聞きたいかなんて分かりきっている。それなのにこんな非効率的な無駄をしている。しかしそれが彼には楽しくてたまらない。おそらく、自ら舞いおどけるこの道化師が道化師自身の意思ではなく、外部からもたらされる状況で道化とならざるをえない事が、それが楽しくてたまらないのだろう。
 居住まいを正し、軽く足を組むような何の気負いもない態度で、その上悪戯めいた声で促す。
「それじゃあ聞こうか。僕に分かることなら答えてあげないこともないよ。さあ、言ってみなよ。君と僕の仲だ」
 騎士の一手に神父は鷹揚に頷く。互いに互いをからかいつつ持ち上げ、貶めながらの言葉遊びでもするのかと思わせる気軽さ。延々と意味もなくからの贈り物をどちらが先に根負けするのか、と包装だけ豪華にして贈りあうようなもの。
 返答は微笑。どこか凶った吸血鬼の笑み。返り来るも吸血鬼の笑み。三日月になった唇がなめらかに紡ぎ出す。





「は――」
 自然と声がこぼれる。
「はは――」
 なぜならあまりにも馬鹿げた現象だから。
 何が起こったのか、何が起こったのか。起こっている事実、彼女の目の前に広がる光景は疑いようもない。どこにだってないだろう。そんなものどこにある。目の前に広がる光景が幻でない証拠に彼女の命は些かも死にさらされていない。自失して呆然とたたずむ彼女など、本来のこの森にしてみればそれこそただの血袋でしかない。それなのに、それなのに何も襲ってこないというのはどういうことか。それだけならまだいい。この不条理も考察の対象となるだけで、後になって、なんなら今からでも調査を進めてみるのもよかったかもしれない。
 しかししかしこれはそんな生易しいものではない。この森の木々の異常性はこれまでよく見てきた。何せ木そのものが蠢き、移動しながら人を血を喰らうのだ。木々が形を変え位置を変えることにいまさら驚きはしない。そうそれだけならば驚きもしない。それでも彼女は驚愕していた。目の前の世界に対する驚きもあったがそれ以上に、それ以上に彼女を心胆寒からしめたもの、目の当たりにした現実。
「――なんて」
 木々が退き道を作る。まるで森の木々が主人を迎えるように、さもなくば賓客を見送るかのように彼女の進行方向から左右に退き紅い木々の回廊が形成されていた。
 森はまるで彼女を、魔術師フォルテを丁重に送り届けるかのごとく彼女に道を譲っていた。
「現実――」
 この森から出るよう先ほどの少女に言われてすぐにこれである。その関連性を真っ向から否定する理由は無い。それどころかある仮説さえ立ってしまう。
 少女が死徒であったのは間違いない。腑海林の中心部にはアインナッシュが玉座についているという、だがいつもいつもそこにいるわけではないだろう。
「……仮説一」
 なんとはなしにひとりごちる。言葉にした方がいいだろう。
「彼女こそが腑海林アインナッシュ。森の王。真祖の姫をして滅ぼしきれなかった大魔術師。最古の祖」
 すぐさまこの仮定は切り捨てられた。
 ――馬鹿馬鹿しい。彼女がアインナッシュである確立は極めて低い。魔術師フォルテ、風使いフォルテは今まで数百年の時を経てきた魔術師を知っている。到底あの少女のような、どこかあどけない雰囲気など持ち合わせていない。とはいえ、この現象に彼女の意思が関与していないと断じるわけにもいかないだろう。
「……仮説二」
 先の仮説では問題にならなかった森の異変。それを説明するにはどうすればよいのか。あの少女とは全く関係ないとも考えられるが、それは第一の仮説以上に空論だ。
 まるで彼女の意をそのまま示したようなこの世界、それが彼女の意思となんら関係を持たないとは考えにくい。彼女はアインナッシュからこの一帯の支配権を簒奪したのではないのか。交戦時、森は明らかに彼女たち二人を共に外敵と見なしていた。ならば分かれてから何かあったとしか考えられない。それも仮定の上での机上論かもしれない。だがもし様々な論考の末にその仮定しか残らないのであれば、それがどんなに信じられないようなものであってもそれを認めないわけにはいかない、とは誰の言だったか。
 まだ仮設は揃っていない。まだ情報も限りなく少ない。
 それでも、
「――最後に残されたただ一つの仮説……」
 未だ考えは十分ではない。十分ではないが、もしこの仮説がこれから推察される可能性が消えていく中残り続けたのであれば、アインナッシュは、腑海林アインナッシュはもうどこにも存在しないのかもしれない。
 まあいい。今は結果を待とう。子宵、アインナッシュ周辺の状況は一変するだろう。埋葬機関も動いたと聞く。しかもそれが四大の魔獣ときた。
どちらにせよ、また勢力図が書き変わる。そう予感した。





 困った。
 結局、また迷ってしまった。最初から迷っていたから、また、とは言わないかもしれないけど、迷っていることには違いない。
 うう、参ったなあ。支配した木々は今現在この森と拮抗状態。互いに互いを喰いつくそうとしている。おかげで木々が大移動をしてしまって余計ワケが分からなくなってしまった。でもあの人は無事脱出できたようなのでよしとする。
 とは言ったものの、わたしが本来優先すべき事はもっと違う別の事。それができなかったら落第だ。別に試験をされているワケじゃないけど、結果はそんなものだろうと思う。期待されたからにはそれにはちゃんと応えたい。
 森は自分を侵食する、内から生じた敵に気付いてすぐさま行動に移した。森の中を歩いている最中に突然木が根っこから伸び上がって地面を走っていったのにはさすがにびっくりした。わさわさと根を脚のように動かして去っていく姿はちょっと怖いものもあったけど、それらは皆異常の原因であるわたしに目もくれず反逆者達を裁きにいってしまった。目、ないけど。
 ともかく、おかげでわたしに対する攻撃も疎かになってくれて、ずいぶんと行動をしやすくなったのだけど、こう迷っていたのでは意味がない。
 そして一番に困った事に、実は時間はあまり残されていない。ここに来てもうだいぶ時間が経った。時間切れがいつかは正確にはわからないそうだけど、それもそう遠いことじゃないだろう。いや、実は残り五分しかない可能性もあるのだ。基本的に森の活動は沈静化してきている。これはつまり実を、あの果実を作り始める徴らしい。こうなってからでないと目的は果たせないけど、うかうかしてると時期を逃してしまう。急がなくちゃいけない。でも結局立ち返る。迷った。とにかくそれが問題、依然として迷っている。一応気配らしきものがあるところに向けて歩いているつもりなんだけど、それも心もとない。
 こう、ループしてしまったとき、何でもいいからループを起こしてしまったときは思うに任せて足を進める。足を進めながら思索の庭に心を置く。考える事なんてものは何だっていい、本当になんとなく思った事でいい。でも、それでも思うことなんて限られてしまう。例えば、あの人は今何をやっているんだろう、じゃあこの人はどうだろう、それなら彼は? 彼女は? そんなことを考える。誰だっていい。アルトルージュさんだって、フィナさん、リィゾさんにメイド、執事の人たち、他にも他にも。そして、遠野くんとアルクェイドさん。何してるんだろうな。祥子とか吉良くん、常盤くん、乾くん。皆今も、わたしがこうしてこんな別の世界にいるような今も、あのままの生活を続けてるんだろうな、とただ思索して、思索しながら森の中を足索する。
 何度も何度もいくつもいくつも見てきた砂死体はもう見つからない。もう誰もいないのか、それとも誰もいなくなったのか。ひょっとしたら、今踏みしめた土は誰かの残骸かもしれないし、そうでないかもしれない。今、目に入る土の全部がそうかもしれないし、そうでないかもしれない。ただただそれは可能性。どっちが正解でも何も変わらない全くの末端式。末端だからこそ、何にも影響を与えず与えられるだけの存在。無限に広がる確率の樹があるとしたら、これはその幹から伸びた一本の枝、それが何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も枝分かれを繰り返して気が遠くなるほど繰り返して繰り返して……その細い細い小枝の先にあるただの一枚の小さな葉。それがあろうとなかろうと、今から散って消えても消えなくても樹に与える影響なんてどれほどのものだろう。
 本当に、どこに何があるなんて、わたしがどこで何かをしてもそれはどれほどの意味があるんだろう。ああ、いつからわたしは虚無主義になったんだろう。いやわたしは虚無主義とは言えない。虚無と言うには強欲過ぎる。わたしはいつだって生きたい。死にたくない。今を生きて、先を生きて、生きてそして本当にやることをやって死ぬんだから。だからまだ死なないし、生きるためにやることをやる。世界にとっては本当に瑣末でも、わたしにとって全てであるのなら、例えば小さな小さな木の葉に過ぎなくても、わたしはその葉の上で生きる小さなもっと小さな虫だったら。その木の葉が散るか散らないかは最重要の問題だ。これからの運命全てを左右する、事と次第によっては以後の予定を全て変えなくちゃいけないような大事件だ。
 くすり、と笑う。何度も考える事なのに、そんなに自分が怖いのだろうか。何度も確認しなければ崩れてしまいそうなほど、わたしはわたしに自信がないのだろうか。そうなんだろう、きっとないんだろう。ふとした拍子に怖くなるからこんなふうに所構わず同じ事をその度に違う手口、角度で考えてるんだろうな。

 依然として視界は悪い、でも森は反逆者を処罰する以外にはもう動かないようだ。今までの異界振りが嘘のように静かだ。歩いても歩いても何も見えてこない。中心部には一本の巨木があると聞いている。それこそがアインナッシュ。そこに行かなければどうにもならない。支配できた木々の様子は未だ拮抗状態。このまま放っておいてもプラスにもマイナスにもなれない。
「困ったなあ……」
 足を止めて空を仰ぐ。相変わらず木々は赤黒い光を発しているので、今のわたしの目には十分なほどの光量はある。でも、見えるものは天蓋のように拡がる葉ばかりで、その隙間から見える空もただ闇に包まれている。新月なのだから仕方がないと言えば仕方がない。
 立ち止まっていては意味がない。だからどこに行くかわからなくても足は動かさなくちゃ。月が出ていないことがこんなにも心もとないなんて初めてだった。こんな血色の光に満たされた中にいると、冷たくて穏やかな月光が見たくてたまらない。
「でも待ってて時間切れなんてみっともない」
 第一、あの木々がこの森を裏返すほどになるのかわからないし。
 あれはちょっとした保険みたいなもの。それとあの人が無事に帰れるようにするための、言わば使い捨て。あまり期待はできない。今はせめぎ合いをしてるみたいだけど、そう遠くなくまた喰い潰されると思う。時間稼ぎ。足が草の葉を踏み分けるガサガサという音だけが耳に入っては出ていく。目の前に伸びる大きな赤黒い蔓を迂回して背の高い草地に足を踏み入れる。何か出てくるかと心配になって身を硬くしたけど何もなく、あっさりと通り過ぎる。直径が1メートルもありそうな太い木が何本も乱立してる。そのそれぞれに焦げた後や斬りつけた傷が見て取れた。そうか、ここでもまた誰かが死んだのか。ここで。
 視界を覆う密集した木の枝を、ポシェットから護身用に持たされたナイフを取り出して切り払う。目前が開けたところでナイフを鞘に収めて、今度はポシェットには戻さず、ジャケットの内ポケットに放り込んだ。だんだんと植物の密度が濃くなってきた。もう何度も何度もポシェットから出したり入れたりするのが面倒くさくなってきたからだ。
 そのポシェットに手を当てる。中に入っているものの感触を確かめて口元を引き締める。これはいざという時のためのもの。城の宝物庫の奥に置いてあった朱玉の輝き。とても貴重で、それなのに持ち出しを許された大事な物。これを持って行っていいと言ったアルトルージュさんがわたしに何を期待しているのかは多分わかってる。でも、これは、本当に。

 ――ぐちゃり。

「あ――」
 吐息が漏れる。
 熱い。息と一緒に他の赤い何かがこぼれ出る。
 こふり、と一度、ごぼごぼ、と二度吐き出して膝を突く。力が抜ける、血が抜ける、色が抜ける。
 心臓が、抜けた。
「おや? あっけないみっともない情けない」
 倒れたわたしを見て、まるで買ってもらったばかりのオモチャを壊してしまった子供のように、口を尖らせる声がした。
「あ、あ、あ……」
 傷が治らない。どうしてどうして痛いどうして。力が抜ける、血が抜ける、色が抜ける、心臓が抜かれた。
「ちょっとおどかすだけのつもりだったんだけどなあ。この程度の鍵で施錠されるなんて思わなかったよ」
 暗い暗い暗い昏い。目の前が赤くて昏い。
 赤い血がこぼれて落ちていく。どんどんこぼれて地面に吸われて消えていく。
 震える体をごろり、と回して背後が見えるようにした。そこに立っていたのはまだ十代の前半程度ではないかというほどの男の子。目が霞んでよく見えないけど、とてもきれいな子だと思う。
 痛い。
 なんとか上半身だけでも起こそうとして、ひじから力が抜けて背を草に打ちつける。そしてらびしゃり、と音がして喉が裂けたんじゃないかってぐらい血が口からこぼれた。
 痛い、痛い。
 傷が治らない。なんでなんで痛い何で痛い。こんなはずはないのに、このぐらいの傷ならすぐに――。
「そうでもないよ。心臓がなくなるとボクらでも一時的に行動が鈍くなる。血が巡らなくなるからね。だから白木の杭を心臓に突き立てるんだ」
 痛い、痛い、痛い。
 オトは聞き取れる。でもそれがなんなのか理解できるほど頭は働いていない。わからないなんでいたいワカラナイドウシテ。
 震える手が草に触れてかさかさと擦れる音を鳴らす。触覚も朧で、何かに触れているとわかるだけ。
「それでも残念だなあ。姫君を祖としてその程度か。蛇程度のものは期待していたけど、ちょっと上を見すぎたかな」
 軽い足音が近づいてくる。恐れるものなんて、どこにも、なにも、運命のようにないとでもいうかのように、どこにも。
 でもどうしてだろう。恐れはない、でもその表情には確かに畏れがあるように見える。
 痛い、痛い、痛い、痛い。
「ああ、動かなくていいよ。まだまだだけど期待の新人をいたずらに切り捨てるつもりはないしさ。ちょっと静かにしてもらおうと思って手持ちの中じゃ一番の摂理の鍵を使っただけさ。ここまでへたり込むとは思わなかったけど、このままなら大事はないよ」
 わたしの頭があるところで身をかがめる。そしたら霞む視界にも彼がどんな顔をしているのかちゃんと見えるようになった。
 やっぱり、きれいな子だった。短く切りそろえられた髪はすだれのようで、真っ白な肌は触るときっとすべすべして柔らかい。少しだぼついた豪奢な服を着ているところが変だけど、それが彼の神聖じみたきれいさを引き立てている。
 長い袖からやっぱり細くて女の子のみたいな白魚の指を伸ばしてわたしの顔に触れる。ひんやりして、背筋がぞっとする。白い指がわたしの朱に染まる。
 痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
「一つ、訊いていいかい?」
 真っ赤な指でわたしの頬をなぞりながら呟く。
「君は――」
 言いかけて口をつぐむ。どちらにしてもわたしには口を開く余裕がない。
 彼はしばらく黙ってから立ち上がる。
「は、はは、今更だよ。今更ボクが何言っても同じだよね。それはそうと――」
 苦笑を浮かべながらさっきまでいた所に戻っていく。そこで一度身をかがめてから何かを拾い上げる。
 わたしの、心臓だった。
 まだそれは脈動を続けている。心臓って自分だけでも動けるものなのかな。それともわたしが死ににくいのと同じように心臓も死ににくいのかな。
 痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
「この血、もったいなかったね」
 言って、それを両手で包み込むように持つ。そして――彼は口を開き、牙を顕にしてわたしの心臓に喰らいついた。ぐちゃぐちゃと咀嚼の音が遠くから聞こえてくる。自分の心臓が食べられてる。醜い化け物じゃなくて、天使みたいなきれいな男の子が口の周りを真っ赤に染めてがつがつがつがつ貪ってる。
 倒錯的、嫌悪と恍惚が混ざり合う。痛い。心臓の筋肉が牙で引きちぎられていく音がする、ぶちっぶちっ、と聞こえてくる。痛い。夢中で、本当にがっついているみたいではあはあと荒い息の音まで届いてくる。痛い。気持ちいい、気持ち悪い?
 次第に体の感覚が戻ってきてるけど、今のわたしには鼓動がない。心臓がない。心臓は今食べられてる。ぬちゃぬちゃ。痛い。感覚があるから痛い。死んでないから痛い。死んでも痛い。
「あ――あ、あ」
 喉も声が出るようになってきた。ちょうど声が出るのに合わせて鼓動も消えた。もちろん今のわたしに鼓動はない。鼓動は外。食べられてる心臓の鼓動。だから、わたしの鼓動は消えた。
 ゆっくりと起き上がる。傷口はふさがったのか、一度血がぼたぼた落ちてからはもう出血はない。
「ごちそうさま。君の血、引いては姫君の因。とても最高に極上においしかった。吸血種になって長いけど、これほどのものはかつてないな。これからもないだろうね。最高だよ」
「あなたは――」
「ん? 怒ってる? もしかして怒ってる? やだなあ、これぐらいでなにさ。怒るのはこれ見てからにしてよ」
 え? と思考が止まる。別にそこまで怒っているワケじゃないし、あれだけのことをされて怒っていない自分が不思議だけど、でも怒ってないから――あ……。
「これ、ちょっと失敬させてもらったよ」
 その手に握られてるものは――。
「だ、だめっ!」
 まだ動きが鈍い体に鞭打って飛び出す。風景が一瞬で流線になって、視野が狭まる。
 次の瞬間、わたしはまた地面に倒れ伏していた。
「あ……ぐっ!」
「せっかちさんだね、君は」
 今度は仰向けに、手足を黒くて細い針みたいな剣で串刺しにされて地面に縫いつけられてる。せっかく治ったのに、また体に穴が開いた。
 ――ああ、痛い。
 最後にもう一本、同じ剣が飛んできて喉を貫く、はずだったけどなんとか首をひねって中心からそれた。でも首は裂かれてまた血が込み上げて、吐いた。心臓は治らない。
「その慌てようからすると本物だね。いや、これは収穫だよ」
 全部で五本の剣で地面に縫い止められて、今はもう上しか見えない。やっぱり赤い木の葉とかすかにのぞく暗天。仰け反るようになった首からは血が勢いよくふき出ている。これもやっぱり治りが遅くて、すごく痛い。
「なんだかんだで君も凄いよ。それボクが特別に編んだ黒鍵なのに、あの状態から五本も刺されてまだ復元を続けてる」
 くすくす笑う声がする。引きつるように、ぎちぎちと痛い。体を動かそうとすると剣が動いてまた体が裂かれる。手の甲を貫いた剣が骨と擦れあってガリガリギリギリ嫌な音をかき鳴らす。ふとももに刺さった剣は柔らかい肉を貫いて骨そのものを断ち切って、動くこともできない。
「あー、大腿骨やっちゃったし、黒鍵があるから接合できないよ」
 相変わらず軽い声。鈴が鳴るようなころころとしたきれいな声だけど、それは今は悪魔の美しさに聞こえる。
「……せ」
 小虫の羽音でもこれほど小さくはないだろう呟きを落とす。
「ん?」
 でもそんな小さな音を聞き漏らさずに少年は首を傾げる。
「……えせ」
 もう一度、血で篭る声を絞る。
「ははあ、なるほど」
 自分でもお化けみたいな、死にかけの世迷言にしか聞こえないような言葉に対して、応えはやっぱり警戒の気配すらない。
「返、せぇッ!」
 腕の力だけで跳ね起きて、剣に引き裂かれる四肢を引きずりながら飛びかかる。でもそれもやっぱり鈍くて緩慢だった。足にほとんど力が入らなくて踏み込みが浅いから、腕の力で地面を引っかいて跳んだのはいいもののそれではまったく機動性がない。だからそれがどんなに速くても、彼の方がずっと速く避けた。
 そのまま背中を打たれて腐葉土に顔をうずめる。柔らかい地面だったから衝撃は少なかったけど、息はつまって口に腐った葉が入ってきた。
「そんなにこれが大事? ならいいよ。ほら、食べちゃいなよ」
 と言って、彼は身をかがめてわたしの目の前に紅玉、アルトルージュさんに持たされ、今さっき奪われたアインナッシュの実を差し出した。
「……? あ、あ?」
 なんで、どうして、なんで、せっかくとったのにどうしてまたわたしにかえすの? あなたがたべてしまえばいいじゃない。あなたがたべたいんじゃなかったの?
 わからないわからない。からだがずきずきとイタイ。
 じくじくとイタイ。
「食べないの? ああ、ごめんごめん」
 ずるずるずるりと体から剣が引き抜かれた。それでも傷の治りは遅い。血が足らない。血を流しすぎた。戻ってくるのかと思ったけど全部地面に染み込んでしまってもうどこにあるかもわからない。
 そして目の前。
 これはなんだったっけ? ああ、そうか結晶だ。赤い赤い結晶だ。ぼおっとする。たくさんの命を食い物にして実る甘い果実だ。苦しい。何十年と眠って、目覚めたと気に自分の内部の生き物をことごとく食べちゃった余りものだ。まぶたが重い。決して枯れないこの森の常緑じゃない、常赤の徴だ。足りない。
 ――足りない。
「は、あっ! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
 それが欲しい、もう一度、あの恍惚が欲しい、あの充足が欲しい、あの苦痛が欲しい、あの決別が欲しい、あの絶対が欲しい、あの遺憾が欲しい、あの悦淫が欲しい、あの寂寥が欲しい、あの快楽が欲しい、あの諦観が欲しい、あの形而が欲しい、あの情感が欲しい、あの喜悦が欲しい、あの偽悦が欲しい、あの悲哀が欲しい、あの震撼が欲しい、あの枯渇が欲しい、欲しい、欲しい、欲しい!
 恍惚が充足が苦痛が決別が絶対が遺憾が悦淫が寂寥が快楽が諦観が形而が情感が喜悦が偽悦が悲哀が震撼が枯渇が枯渇が枯渇が欲しい!
「そ、れ、そぉっ……れがぁ……」
 首を伸ばす。傷口から血がごぼごぼとまた落ちる。これが最後、もう一滴も流せない。
 唇が実に触れる。つるっとした表面に体の芯から火照る。じん、と下腹が熱く感じる。足は動かないけど、ふとももが少しだけもじもじとしてるけど全然気にならない。
「んっ……」
 熱に浮かされたように口をすぼめるみたいに開いて、少しだけ牙が皮を破る。
 ああ、そこからはじける快感は味覚とは思えないほど。頭が真っ白を通り越して真っ赤に染まる。
 腕の傷がふさがる。筋肉が繋がって骨も元通り。動くようになった腕で自分の体を抱く。衣擦れが痛いほど気持ちいい。下着が肌に擦れて、特に敏感なところが一度擦れただけで、ただそれだけで一度迎えてしまった。
 ああ、ああ、どうして、まだまだ、なんで、まだまだ。
 ――全然、足りない。
 舌を伸ばす。てろりと果実を舐めあげる。ただそれだけで芳醇な香りが口の中に広がって、さっき牙開けた穴に舌を滑り込ませると腰が跳ねるぐらい。
 それでもたまらず差し出された実を自分の手でとり、うつぶせでだらしない、行儀の悪い格好だけど、今度こそ喰らいついて咀嚼する。今度こそ、今度こそ、今度もまた。
 はじけた。
 白く赤く。
 なにもかもなくなった。
 だから――。
 全然、足りない。
 それなら――。
 全て、奪ってしまえ。

 なにもかも、わたしが奪ってあげる。

 ぱさり、と触れた雑草が砂になった。

 さら
 さらさらさら
 さらさらさらさらさら
 さらさらさらさらさらさらさら
 さらさらさらさらさらさらさらさらさら
 さらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさら
 さらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさらさら

 ――足りない。





 森の世界が砂の世界、枯れ果てた世界に塗り替えられていくなか、少年は満足そうに微笑んだ。
 そうでなくてはつまらない。そうであるからこそ、自分は彼女を認めると。
 彼――メレム・ソロモンは一瞬の内に拡がる絶死の世界に飲みこまれる前に、くふふ、と嬉しそうな笑い声を残して姿を消した。
 しかし、それすら今の弓塚さつきには聞こえない。

 より強固な異界はより劣る異界を壊れた箱庭へ、より強固な幻想はより劣る幻想を妄想へと堕とす。
 それは必定。
 それが理。